「月刊キリスト」1965年9月号(日本基督教協議会文書事業部)
”日日に聞く聖書のことば”欄掲載
(牧会8年・岩国教会牧師1年目、健作さん32歳)
25日(土)
テサロニケ人への第二の手紙 1:1-12
善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるように…(11節)
挨拶に続いて、著者は迫害中にある教会の信仰と忍耐とを賞揚し、キリスト来臨の折、彼らが正しい報いを受け、敵が滅亡するであろう、と述べ彼らの信仰生活の充実を祈ります。これが一章。悪に対する神の報復という考え方は、わたしたちには馴染めませんが、いわゆる未来的終末論(まもなく世の終わりと審判があり、神は悩まされている者に休息をもって必ず報いる)に対する信仰は、迫害の中で戦う者たちにとっては、唯一の現実的エネルギーの拠り所だったのではないでしょうか。
中国の登山隊がシシャパンマを征服した時、許競隊長が「戦略的には困難を軽視し、戦術的には困難を重視した」と言っていますが、それに似て終末論は、現実を相対化してゆく姿勢です。それゆえにこの悪の世で善を志してゆくこともできたのです。大局的に困難を軽視して、具体的には困難と戦いながら。
27日(月)
テサロニケ人への第二の手紙 2:1-12
だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。(3節)
パウロは自分が育て養った信仰者がだまされて、信仰から転落してゆきはしないかと傍目には必要以上の心配をしています。例えば、「ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかと…」(第二コリント 11:3)のごとくです。だまされる、誘惑されるは共に”エクサパクオー”ということばです。
この語は本来、だますこと、ペテン、知能犯、狡猾、陰険な悪だくみ、戦略における巧みな策略、などを表わす”アパテー”という語源を持っています。
「堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えた言伝えを、しっかり守り続けなさい」(15節)。これがパウロの処方箋です。
初めから観念的な主体性を鼓舞するより、具体的目標を教えられた通りに守ることの方があざむきを避ける実践訓とは、心すべきことです。
28日(火)
テサロニケ人への第二の手紙 2:13-17
(神は)わたしたちの福音によりあなたがたを召し…(14節)
このパラグラフは感謝(13-14節)、戒め(15節)、祈り(16節)です。パウロは、神がテサロニケの兄弟たちを召してくださったことを感謝します。信仰における神のイニシアティブが明確にされます。このことはどんなに信仰における人間の側の決断や主体性が強調されても、その背後で、それにも増して清か(さやか)にされねばなりません。しかし、神のイニシアティブは客観的絶対性(絶対的絶対性)としてではなく、主体的絶対性として清かなのではないでしょうか。
神の召しは、ここでも「わたしたちの福音」を通して働いています。新英語聖書は “……he called you through the gospel we brought” 「わたしたちがもたらした福音」と言っています。信仰においては神が優先し、現実においては証人が優先します。主は一つでありながら自分の信仰の先達に似て、それぞれ個性ある信仰者となっていいと思うのです。
29日(水)
テサロニケ人への第二の手紙 3:1-5
わたしたちのために祈ってほしい(1節)
福音を語るという行為(ケリュグマ)は、主体的真理を語ることですから、それを清かに聞きとる受けとめ手が求秘められていることを確信しなければ、とうていその任に耐えられません。また、驚くべきことに、語る行為と語られたことばによって生きはじめる幾人かが必ず現われるものです(使徒17:34)。この幾人かの存在の重さに支えられて、宣教とか伝道があります。パウロは、この幾人かの重さを「わたしたちのために祈って欲しい」という願いで表わしています。そのような「幾人か」はどんなに慰めであったでしょうか。
「説教するということは、自分からは語れないのです。逆に、さまざまな意味で自分に抗して語ることであります……説教者はこのような問いから、終生解放されることはありえないと思われます」。藤井幸夫氏(関西学院大学教授)の言葉である。
30日(木)
テサロニケ人への第二の手紙 3:6-17
ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。(9節)
「主の日はすでに来た」との流言に惑わされてか、キリスト者の自由を誤解してか、怠惰な生活を送って、ただ人々の間を動きまわって、働かないで食べる者たちが出て来ました。パウロは教会の交わりの中にそのような怠惰を許さないきびしさを作らせます(6節)。その上で、なまけ者に向かって手職をしながら労苦して働き続けた自分を示します。
子供はおとなのいうことを聞かないが、おとなのまねをする、この真理を彼は知っていました。福音とはまず自分が変わってゆくという気魄の真理ではありますまいか。神が識別不可能なまでに自らを変え、僕(しもべ)の姿で死に至る病を負い通されたのです。
それゆえに、身をもって示す模範をぬきにして何事をも語られたり、命ぜられたりしてはなりません。イエス・キリストに身をかけていてこそ「あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい」と申せます。
(岩井健作)


