まつりごとはその肩に《イザヤ 9:6-7》(1983 説教要旨・週報・待降節)

1983年12月18日、待降節第4主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
(同日発行の教会報)恐れるなマリヤよ

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)

イザヤ 9:6-7、ルカ 1:26-38、説教題「まつりごとはその肩に」岩井健作
”ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、……”(イザヤ書 9:6、口語訳)


 この度の選挙は、田中角栄元総理のロッキード事件有罪判決で裁かれた政治の金権体質に対し国民もまたどれほどの批判を示しうるかという所に焦点があります。

 そのことを願って行動されている方も多いと存じます。


 さて、今から2700年前、預言者イザヤが活動した頃も政治の暗い時代でした。

 アハズ王は強大な帝国アッシリアに右顧左眄し、自分の利益のみを求め、国の道義を説く者を弾圧しました。

 イザヤは政治と深く関わりつつ、主なる神のみを恐れ、王に直言し、公の活動を禁じられてからは少数の弟子たちを訓練し、希望を託しました。

 そのような中で、アハズ王は死に、アッシリア王ティグラトピレセル3世が死に、その重圧が和らいだ時、イザヤが支持するヒゼキヤ王が即位しました。

 その即位式を歌った歌が、イザヤ書9章の今日の箇所です。

 この歌は、ヤーウェ(主)のダビデ王朝への祝福から、さらにメシア(救い主)誕生の希望を込められて、後の時代へと語り継がれました。


 ”ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。”(イザヤ書 9:6-7、口語訳)


 まつりごとを肩に負う王について次のように歌われています。

・霊妙なる義士(知恵と経綸のある政治家)
・大能の神(神のごとき人格を備えた政治家)
・とこしえの父(慈愛をもって政治をする人)
・平和の君(武力を排除し紛争を信義を持って解決する人)


 「まつりごと」は、直訳すれば「支配・統治」です。

 「肩」は、王衣が纏(まと)われるところです。

 イザヤは当時の政治に痛く失望していました。

 しかしなお、ヤーウェの導きはその政治を肩に担うことを通して示され、来るべきメシア(救い主)は「まつりごとを肩に負う」方であることを信じました。

 そして主イエスの飼い葉桶での誕生から十字架の死に至るまでの道程は、大きな意味で世の政治との激しい軋(きし)みの中で示された神のわざです。

 政治を担うことは、政治家になったり、政治運動をしたりすることだけではありません。

 むしろ政治の谷間の問題が肩に食い込んでくる所で、人間を愛し守り、正義と平和を求めることであると信じます。

 それはまたイエスに従う者の道でもあります。

 クリスマスに、社会福祉、社会実践(人権・差別・飢餓・公害等々)、教育、伝道など、各分野の前線から切々たる訴えと共に90通近くの献金支援の訴えが教会に届いています。

 ファイルされていますが、その一つひとつを読むと、現代の悪しき「まつりごと」への鋭い問いを含んでいることを感じます。

 そのような働きこそ主イエスの救いのわざに包まれて永遠の光を放っていることを覚えつつ、働き人のために祈り、また捧げる備えをすることが待降節の課題の一つであると信じます。

(1983年12月18日 説教要旨 岩井健作)


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(同日発行の教会報)恐れるなマリヤよ

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