恐れるなマリヤよ

神戸教會々報 No.105 所収、1983.12.18

(健作さん50歳)

恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいている。 ルカ 1:30


 ここで「いただいている」と訳されている言葉は、直訳すれば「見出す、気づく、わかる、悟る」という意味だ。玉川直重著の「新約聖書ギリシャ語辞典を引いてみると、その意味のニュアンスを分類した中で、「獲得する、わがものにする、to acquire, obtain」というところに入れて、その用例として、マタイ10:39「自分の命を失っている者は、それを得るであろう」など数カ所をあげている。そしてこの動詞の時制が起った出来事を示す過去形であることを考えると、「恵みをわがものとしているのだ」という意味となる。「恵み」は聖書辞典が簡潔に示しているように「神が人間に愛の意志をもって、人との間に築かれた信頼の関係そのもの」である。とすると、ここで読みとるべきことは、恵みがすでに与えられているという事実を、単に受身ではなくて、どれほど自覚的に受けとっているかという点にある。


 このことと関連して私は哲学者・森有正氏の随筆を思い起す。氏は『木々は光を浴びて』の中で、自分がまずあってそれが何かを感じることを「体験」といい、「体験」をぬけだして、名辞、命題、観念を介さないで、あるがままを感知し受け入れていくことを「経験」という。「体験」から「経験」への巨大な変貌過程は、啓蒙や教育や探求では生み出せないという。氏はそれ以上のことを語っていない。

 その言葉にしにくいところをメッセージとしているのが聖書ではないだろうか。


 ルカ福音書1:26以下によれば、マリヤは「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ1:28)という告げ知らせを聞く、この言葉に対して、マリヤは「ひどく胸騒ぎがして、このあいさつは何のことであろうかと、思いめぐらしていた」(ルカ1:29)とある。受身の事実としては恵みは断片的でしかない、その全体を体験することはできない。その意味で、自分の既知の体験外のことは「ひどく胸騒ぎ」を起させる。

 私たちの人生経験にしても、恵みは様々な形をとって、生活経験の断片として迫って来ることが多い。だからパウロは恵みに引き入れられていく様を「信仰によって導き入れられる」(ローマ 5:2)といったあとで、「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである……なぜなら……神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と続けて語っている。
 マリヤが「何のことかと思いめぐらした」(ルカ1:29)というのは、恐らくこの過程のことを言うのであろう。これに対して、御使いは「恐れるな、マリヤよ」と告げる。

 根本的には、恵みをすでに得ているものとして生きよ、という促しである。「恵みをいただいている」との言葉は、最初の御使いのことば「主があなたと共におられます」と同義であるが、その間で私たちが、この圧倒的な出来事を、森有正氏流にいえば、「体験」から「経験」への変貌過程としてどう生きるかが問題なのである。それはまた課題であり、そのこと自身が恵みであると言うべきであろう。

 ルカ福音書はマリヤを神のドラマで積極的な役割を果す女性に仕立て上げている。それは感性と意志の結合であるようだ。私たちもマリヤの如くクリスマスを迎えたい。


(サイト記)本号の表紙のカットは小磯画伯によるものです。当時79歳。転載転用されないようあえて不鮮明に撮影しています。原画は皆様がよくご存知の方の個人所蔵です。