恐れるなマリヤよ(1983 神戸教會々報 ⑰・待降節)

1983年12月18日発行、
神戸教會々報 No.105 所収、
(この日の礼拝説教)まつりごとはその肩に《イザヤ 9:6-7》

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)

”「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。”(ルカ 1:30、口語訳)


 ここで「いただいている」と訳されている言葉は、直訳すれば「見出す、気づく、わかる、悟る」という意味だ。

 玉川直重著の『新約聖書ギリシャ語辞典』を引いてみると、その意味のニュアンスを分類した中で、「獲得する、わがものにする/”to acquire”, ”obtain”」というところに入れて、その用例として、マタイ10章39節「自分の命を失っている者は、それを得るであろう」など数カ所をあげている。

 ”自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。”(マタイによる福音書 10:39、口語訳)

 そしてこの動詞の時制が「起こった出来事」を示す過去形であることを考えると、「恵みをわがものとしているのだ」という意味となる。

「恵み」は聖書辞典が簡潔に示しているように「神が人間に愛の意志をもって、人との間に築かれた信頼の関係そのもの」である。

 とすると、ここで読み取るべきことは、恵みがすでに与えられているという事実を、単に受け身ではなくて、どれほど自覚的に受けとっているかという点にある。


 このことと関連して私は哲学者・森有正氏の随筆を思い起す。氏は『木々は光を浴びて』の中で、自分がまずあってそれが何かを感じることを「体験」といい、「体験」をぬけだして、名辞、命題、観念を介さないで、あるがままを感知し受け入れていくことを「経験」という。

「体験」から「経験」への巨大な変貌過程は、啓蒙や教育や探求では生み出せないという。氏はそれ以上のことを語っていない。

 その言葉にしにくいところをメッセージとしているのが聖書ではないだろうか。


 ルカ福音書1章26節以下によれば、マリヤは「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ1:28)という告げ知らせを聞く。

 この言葉に対して、マリヤは「ひどく胸騒ぎがして、このあいさつは何のことであろうかと、思いめぐらしていた」(ルカ1:29)とある。

 受け身の事実としては恵みは断片的でしかない、その全体を体験することはできない。その意味で、自分の既知の体験外のことは「ひどく胸騒ぎ」を起こさせる。

 私たちの人生経験にしても、恵みは様々な形をとって、生活経験の断片として迫って来ることが多い。

 だからパウロは恵みに引き入れられていく様を「信仰によって導き入れられる」(ローマ 5:2)と言った後で、「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである……なぜなら……神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」(ローマ 5:3-5)と続けて語っている。

 マリヤが「何のことかと思いめぐらした」(ルカ1:29)というのは、恐らくこの過程のことを言うのであろう。

 これに対して、御使いは「恐れるな、マリヤよ」と告げる。

 ”「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。”(ルカ 1:30、口語訳)

 根本的には「恵みをすでに得ているものとして生きよ」という促しである。

「恵みをいただいている」との言葉は、最初の御使いのことば「主があなたと共におられます」と同義であるが、その間で私たちが、この圧倒的な出来事を、森有正氏流にいえば、「体験」から「経験」への変貌過程としてどう生きるかが問題なのである。

 ”「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。”(ルカ 1:28、口語訳)

 それはまた課題であり、そのこと自身が恵みであると言うべきであろう。

 ルカ福音書はマリヤを神のドラマで積極的な役割を果たす女性に仕立て上げている。

 それは感性と意志の結合であるようだ。

 私たちもマリヤの如くクリスマスを迎えたい。

(神戸教會々報 No.105、岩井健作)


(サイト記)本号の表紙のカットは小磯画伯によるものです。当時79歳。

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キリストの言葉を豊かに(1984 神戸教會々報)

(この日の礼拝説教)まつりごとはその肩に《イザヤ 9:6-7》

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