キリストの言葉を豊かに(1984 神戸教會々報15)

神戸教會々報 No.106 所収、1984.4.22

(健作さん50歳)

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心からほめたたえなさい。 コロサイ 3:16


 これは本年度の教会の標語である。標語がどのような意味合いを持つのか教会の中には様々な考え方もあろう。私はこう考えている。一つはこの言葉をめぐって、教会の肢に属する者、求道の人たち各人は、それぞれに想いがあるだろう。独り独りが思いをめぐらすこと、黙想の世界を促す言葉としてかかげられている。もう一つは、自分の想いと他の人の想いとを頒ち合いつなげていく交わりの生活の標語としてこの言葉が共有されるべきであろう。例えば初めて礼拝に出席した人に今日はどんなことをお感じになりましたかとたずねたら、説教は難しかったが(大いに反省を促される!)みんなの讃美歌の声に心がなごんだとの答えが帰ってきた。讃美歌を歌うにはそれなりの思いが歌い手にはある。本人の意識や自覚を越えて、神の言葉や恵みへの応答なくしては声は声にならないであろう。また聞き手の心の生活にその歌声がなごんで響くというのは、その人なりの思いめぐらしが受け皿になっているに違いない。そのように各人の黙想と交わりには相互関係がある。その関係を生み出していく手がかり足がかりを標語に求めていきたいと思っている。

「キリストの言葉」以下この章句がどんな意味を担っているのかの釈義的研究などは折々に深めたい(週報84年No.14も参照)。私は最近読んだ「言葉」をめぐっての二つの文章との関連で「キリストの言葉」について想いを促されている。

 一つは、川崎洋著『ことばの力』(岩波ジュニア新書)。ことばというものが人びとの心に楽しい橋を架けたり、怒りや悲しみを和らげたり、人をつき動かしていく力をもつものであることを、この本は知らせてくれる。さりげない日常のあいさつ、青春の愛のささやき、会話のユーモア ー へのさぐりを通して言葉の肯定の世界へと導いてくれる手腕はさすがに詩人だと思わせる。

 もう一つは飯島宗亨(むねたか)著『論考・人間になること』(三一新書)に収められている「ことばを使う奴 ー『ことば』とサルトル」という短い文章。この中で飯島さんは、かつて筑豊炭田が廃墟に追いやられるさ中、一人の労働者が酔って作家・森崎和江氏に「ことばを使う奴は、死ね!」と出刃包丁をつきつけて喚いた話を紹介している。そして、この労働者の怒りと恨みの爆発は、政府であるか、会社であるか、仲間であるか知らないが、聞こえのよい建前のことばを信じて裏切られたことに発するものだと言い、さらに学問や知識など言語による説得と支配根拠をもつ文化総体への異議申立が含まれていると言っている。この問の前に「神にことばを帰せしめるか、ことばを捨てるか」だとしつつも、言葉の主体であり続けんとしたサルトルの存在の重さを示す。氏はありきたりの言葉の否定の世界を教えている。

 この言葉の肯定と否定の両極を忘れた時、「キリストの言葉」への黙想と頒ち合いは薄く狭いものになるのではないか、と思わせられる。「キリストの」という前半は、イエスの十字架の死の現実を含む。人間の言葉が絶語し失語する状況である。にもかかわらずその出来事が「言葉」と結びついて伝達されるのだとすればそれは驚く他はない。人と人とをつなげる豊かさがその言葉には宿らされている。

向う側からの学び(1984 神戸教會々報16)