向う側からの学び(1984 神戸教會々報16)

神戸教會々報 No.107 所収、1984.7.15

(健作さん50歳)

もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。 ローマ 15:27


 朝日新聞に「こどもの小遣い」と題し、家政学者の氏家寿子(うじいえ・ひさこ)氏(86歳)が体験を語っている。次女が小学校一年のころお金に興味を持ち、お客が来ると「おじさま、靴を磨きましたよ」とお金をもらう。そして通帳をみてニタリ。氏は内心、心配だったという。しばらくして日曜学校の親しい先生が岡山のハンセン病施設に転勤になった。その後お金がそこに送られ、入園の子から感謝の手紙がとどき、それからは貯金は送るために貯えるという具合に一変したという。氏は「母親として教えることができなかったお金の貴さを、施設の子供から学んだわけですね」と言う。


 私たちの教団・教区・教会は今、在日大韓基督教会との宣教協約に基づいて宣教協力資金(教団で10年間に一億円、内兵庫教区で一千万円)を献げることを決めている。これは協約の前文にあるように過去の日本人及日本の教会の罪責の表明をも含めて現在の宣教活動(人権の確立を含む)への協力の具体化の一つである。しかし、一体どのような過去があり、そして何が「在日」の現実なのかについて私たちは途方もなく認識を欠いているのではないだろうか。李仁夏(い・いんは)著『寄留の民の叫び』(新教出版社)や飯沼二郎著『見えない人々』(教団出版局)を読んだだけでも、いかにこの70万人の人々の苦難の現実に無知であるかが知らされる。まして日本の教会の歴史への問い返しをも含めるとなると重い転換に身のきしみを覚える。李仁夏牧師は「在日同胞」の苦難を辿りつつ、多数日本人の中で、また本国の多数者とも異なる中で、少数者としての本来あるべき姿を示している。同質化と同化を強要する社会で、名前を回復し、人権を打ち立て、自己同一性(アイデンティティー)を確立することが、同時に少数者にしか出来ない日本人の人間性回復への促しであり新たなる出会いであると。もし私たちがこのことの意味を学ぶことができたら「献金」の質は一変するのではないかと思う。


 私たちは今夏、夏期特別集会で佐竹明先生を招きパウロについての学びを深めようとしている。そのことの関連でいえば、佐竹先生がその著『使徒パウロ』(NHKブックス)の中で展開しているパウロの献金運動(214ページ以下)についての論述は示唆に富む。パウロは第三伝道旅行で異邦人教会に対しエルサレム教会への献金運動をすすめる。これはエルサレム会議(ガラテヤ 2:9-10)の取り決めに基づいてはいる。しかしさらに深い意味が指摘されている。伝統と状況の異なる二つの教会、即ち異邦人教会とエルサレム教会との「交わり」をどう具体化するかにあるという。「献金運動は彼(パウロ)にとって伝道の果実である異邦人教会に対し自らを閉ざしがちのエルサレム教会に自らを開くことを求めるための最も具体的手段となり得たのであった」(p.219)。パウロの情熱はそこにあったという。異邦人教会といういわば発展しつつある教会も閉ざされた伝統のエルサレム教会からの学びを必要としたのであろう。向う側からの学びが必要であった。この「エルサレムの人々との出会い」(ボルンカム『パウロ』 p.152)をもたらしたのが献金運動であった。パウロはローマ15:27でこの献金を通しての出会いを「霊の物」と「肉の物」との交換といっている。「肉の物」即ちお金の質を一変させる向う側からの学びの体験は大切にしたい。

「ために」ではなく「共に」(1984 神戸教會々報17)