テサロニケ人への第一の手紙(3) 4:1-5:28(1965)

「月刊キリスト」1965年9月号(日本基督教協議会文書事業部)
”日日に聞く聖書のことば”欄掲載

(牧会8年・岩国教会牧師1年目、健作さん32歳)

20日(月)

テサロニケ人への第一の手紙 4:1-8
神のみこころは、あなたがたが清くなることである。(3節)

 宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ。情欲をほしいままにすることがあたりまえになっている異教社会で、不品行を慎み、清くなることはどんなにむずかしかったでしょうか。清くなるための戦いと過程がここでは強調されています。

 わたしたちが住んでいる日本の社会で清くなるための過程とはなんでしょうか。買収、不正、おどし、傷害、麻薬、密輸、売春、選挙違反、陰謀、侵略、搾取、殺害、貧困などの新聞記事から無縁であれば、それで清くなるとは思いません。自らがこんな時代に存在する不条理に耐えて、これらの諸悪とその根源と戦う以外に、清くなる過程はないと思います。

 その戦いのさ中、どんなに正しい目的でも、目的ゆえに手段が無条件で正当化されるとき、そこにはエゴイズムが忍び込み、清さが失われます。清くなるとは、手段の限界を見きわめてゆく精神を養うことです。


21日(火)

テサロニケ人への第一の手紙 4:9-12
落ちついた生活をし、自分の仕事に身を入れて、手ずから働きなさい。(11節)

 再臨の問題などで興奮してしまい、いたずらに人々の間を動きまわったりして、自分の仕事に身がはいらず、そのために人にパンを依存している者があったようです。パウロは終末の信仰に生きればこそ、倫理の大切さを訴えます。倫理を大切にすることは興奮と情熱をさやかに区別してゆくことではないでしょうか。興奮は周辺に向かい一時的であり、情熱は中心に向かい持続的です。

 今日は、カルヴァンの時代と異なって、労働に対して、その中心に対して持続的に熱意を燃やせなくなっています。特定の社会構造からくる疎外、技術的革新による疎外など、問題は深刻かつ広範です。そこでは、自分の仕事を社会全体の中で見すえ、働く仲間と共に、人間を疎外する内と外との条件に向かって戦うことこそ、手ずから働くことではないでしょうか。

 いそしむものの おるところに
 はたらきびとの 主もましまさん


22日(水)

テサロニケ人への第一の手紙 4:13-18
悲しむことのないため…(13節)

 当時のテサロニケの人々は、イエスがまもなく再臨するという信仰に生きていました。その日のありさまを旧約のダニエル書の描写などから理解して、大きな希望を持ち、待ち望んでいましたが、その日を前にしながら、親しい者たちの間には、死んでゆく者がありました。理解の浅い信徒たちの間には、この者たちは今まで苦難に耐えてきたのに、もはや再臨の折、栄光と希望に迎え入れられることがないのではないか、と考えて悲しんだのです。パウロは、その者たちも主と共にいることを説いて慰め、また励まします。

 この人たちは肉体の別離である死を悲しむよりも、魂の別離になりかねない終末時の別離を悲しんでいます。「人が死ぬときはひとりである」というパスカルの言葉のように、私たちにも肉体の別離は必ずやってきます。その時、魂まで別離しない生き方を、信仰において養われるということは幸せなことです。


23日(木)

テサロニケ人への第一の手紙 5:1-11
信仰と愛との胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって…(8節)

「篤信なる信仰者は、彼自身が思恵に浴していることを確認するためには、彼自身を神の力の容器と感ずるか、あるいはその道具と感ずるか、二者のうちの一つである。前者の場合には、その宗教生活は神秘的な感情主義に傾き、後者においては、禁欲的行為に傾くのである。したがって、ルターは前者の類型に接近し、カルヴァン主義は明瞭に第二の類型に所属するのであった」(ウェーバー)。

 ピューリタンの流れを汲む日本のプロテスタントはどちらかといえば、第二の類型に属していると言えましょう。容器でなくて道具、感情でなくて行為、それゆえに胸当てやかぶとが必要なのです。信仰や愛や望みは説明を要する抽象概念ではなくて、それを用いてわが身を蝕むニヒルと戦い、そこに何かを創り出してゆく武器ではありますまいか。

 武器といってもB52やナパーム弾に比べてほほえましい限りです。


24日(金)

テサロニケ人への第一の手紙 5:12-28
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(28節)

 いろいろと語ってきた手紙の最後のことばです。一見終わりの挨拶のようですが、語る側にとっては、ことばとしてのぎりぎりの限界を語っています。今迄語ったことが真実に受けとめられないならことばはむなしいものとなるでしょう。ことばを実践にまで至らしめる勇気と決断が語られるよう祝福を祈るのみです。

 語り手の決意をもこめて、祈りであれば、「私達と共に」と言った方がよい様な気がします。が、あえて「あなたがたと共に」と語るところに祝祷の性格があります。もはや、語り手の決意すら客観化していないのです。きびしいことです。日曜礼拝の祝祷も心して聞かれるべきです。

 説くことを休めよ人事凡々険艱(けんかん)なるを
 公義の存する所天意関す
 若し我信をして芥子の如くなしめば
 桑田海と為り海山と為らん(新島襄)

 伸びのびと一週間を生きようではありませんか。

(岩井健作)


テサロニケ人への第一の手紙 ()()(


BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)

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