テサロニケ人への第一の手紙(2) 2:17-3:13(1965)

「月刊キリスト」1965年9月号(日本基督教協議会文書事業部)
”日日に聞く聖書のことば”欄掲載

(牧会8年・岩国教会牧師1年目、健作さん32歳)

16日(木)

テサロニケ人への第一の手紙 2:17-20
顔をみたいと切にこいねがった。(17節)

 顔を立てる、顔を売る、顔いろをうかがう、顔をつぶす、などと言います。顔は人間そのものを表わします。相手を攻撃するのに顔のことを言うのはもっとも卑劣ですが、それだけに痛烈でもあるのは、顔が人格を表わして余りあるからです。

 顔を見たいと切にこいねがった。この一句にお互いの関係の切実さがにじんでいます。

 テサロニケの信徒が、患難の中にも、「主の日」を待ち望む終末の信仰に立って、自分たちの周りの異教的習慣のしみついた不品行から、身を清く保って、生きぬいていた姿勢には、多くのことを語らなくとも、顔をみれば相通ずる輝きがあったに違いありません。 

 「何も言うことのない顔と沈黙に守っている顔を見分ける事」。小林秀雄の手帖にあるセリフですが、沈黙とは自分の死を先取りしていることです。それだけにまた引き離されていることが、最も切実なのです。


17日(金)

テサロニケ人への第一の手紙 3:1-10
あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きる……。(8節)

 堅く立つとは、迫害やユダヤ人のあざむきにもかかわらずキリストの力ある徳にゆるがずに立つこと(アボット)。キリストにある確信と実践にとどまること(ネイル)。テサロニケ教会の信徒が患難に抗して生きる姿勢を、テモテの吉報で知って、いまコリント伝道の困難の中で失意にあったパウロは大いに生きがいと働きがいを感じています。

 堅く立つとは、持続的な人格的決断を示しています。それに比べても次の指摘は反省させられます。

 「日本に於ける信仰生活上の深刻な問題は、学校を出て職業生活にはいり、さらに結婚すると、教会から遠ざかり、信仰を失っていくという冷厳な事実である。このような信仰喪失者に共通にみられる現象は背教意識の欠如していることである。……信仰告白自体に人格的決断として欠けるものがあったことを示している」。隅谷三喜男氏の言葉である。


18日(土)

テサロニケ人への第一の手紙 3:11-13
どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、…増し加えて豊かにして下さるように。(22節)

 パウロの祈り。同国人たちから苦しめられた(2:14)テサロニケの信徒たちであればこそ、相互の愛は何よりも大きな支えであったでしょう。けれども同時に、すべての人に、と並列されています。この中には、教会の交わりでも、ぴったり兄弟としての呼吸が合わない人(5:14-15)も含まれていたかもしれません。さらに、教会の外への愛の広がりを示しています。愛(アガペー)は論理の上では、神から教会、そして世界へと向かうのでしょうが、実践においては、内と外はいつも並列されています。愛(アガペー)は果てしない投企であって、こちらから内と外とを峻別しないものです。

 「わたしたちは、善を行うことにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機のあるごとに、だれに対しても」(ガラテヤ 6:9)

(岩井健作)


テサロニケ人への第一の手紙 ()()(


BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)

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