神の国を受け継ぐ者(2014 牧師最後の説教)

2014.3.30、明治学院教会(331)受難節 ④
単立明治学院教会 主任牧師として最後の説教
牧会56年(1958-2014年)最後の説教、80歳
1999.2.14、神戸教会 礼拝説教

アモス 5:14-15、エフェソ 4:25-5:5

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソの信徒への手紙 5章1節、新共同訳)

1.私たちが、ある人への印象を持つ場合、その人が語ったことよりも、どう振る舞ったかの方が心に残ります。

 かつてインドを訪問した時、マザーテレサの名の下で行われている幾つかの施設に伺いました。ヒンズー教75%、イスラム教15%、キリスト教0.2%の国なのに、打ちひしがれた弱者・病者・死にゆく者へのケアなどは、宗教を超えて多くの人々の希望になっていることを感じました。

 キリスト教では教えも大切ですが、行為が目に見える証になっているか否かの大事さを感じました。そして教えと行為の緊張関係を生きているシスターたちの働きに教えられました。

2.「エフェソの信徒への手紙」の特徴は、信仰の基礎と実践との緊張関係を伝えていることです。1−3章は「教え・基礎」(特に教会論)で、後半4−6章は「実践・倫理」です。

 その間に「執り成しの祈り」がありました(3:14-21 前回説教「祈りは教会の力」)。

 その緊張は例えば

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ 5:14、新共同訳)

 という古代の洗礼式の時の讃美歌の引用などがよく語っています。

「キリストがあなたを照らす」は「神の恵み」の事実です。

「起きよ」とは呼びかけです。

「事実・真理」が呼びかけにより「現実・体得」になるのです。

エフェソ 4章25-29節「……真実を語れ……その人を作り上げるのに役立つ言葉を……語れ」までは、人間として生きるための基礎的倫理です(実際、当時の教会では「盗むな」が語られねばならない事実があったのでしょう)。そして続く「聖霊を悲しませてはいけません(30節)」は旧約イザヤ書 63章10節の、神を苦しめるイスラエルの民が思い浮かべられています。

 私たちが本気で人間の命を守る闘いを(最低限「十戒」の犯罪”盗まない”を犯さないのごときを)怠るならば、人間を本気で信頼して、救い(贖い)を成し遂げられた神が悲しむということです。

 31節の古代悪徳倫理表のような「無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしり」を「一切の悪意と一緒に捨てなさい」とあります(エフェソ 4:31)。何かを身に着けるより「捨てる」が強調されます。これは前段「古い人を脱ぎ捨て」(エフェソ 4:22)と同じ単語です。

「赦し合いなさい(4:32)」も極めて日常的倫理です。

 5章に入りますと「神に倣う者となりなさい(5:1)」と抽象化した語り口に続いて「卑猥な言葉、下品な冗談」など生活の細部に関わる身近な戒めが語られます。日々の生活の品位を身につけるという些細なことが「神の国を継ぐ」という根本的な出来事と緊張関係にあることが示されています。

3.聖書にはこの「促しと約束」というパターンが頻繁に出てきます。

「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7、ルカ11:9)は典型的な類型です。

 この緊張関係を生きることが、福音の現実化ということでしょう。

 他の言葉で表現すれば「体得契機(受け継ぐ)」と「真理契機(神の国)」の緊張関係です。

「真理(教え・信条・教理)」を頭だけで把握しているキリスト者が日本の近代(知識人層を中心にしたキリスト教)には多いことが、戦後の歩みで自省されました。

「戦争責任告白(日本基督教団 1967年)」などもその一つの反省の表れです。

「体得(福音の現実化)契機」を大事にして(頭と口の達者なキリスト者ではなくて)地道に一歩一歩、日常と社会の生活を積みあげるキリスト者でありたいと思います。

「神の国」は「受け継ぐ」ものなのです。「棚ぼた」でやってくるものではありません。

meigaku_iwai_331

礼拝説教インデックスに戻る