祈りは教会の力(2014 礼拝説教)

2014.3.16、明治学院教会(330)受難節 ②
単立明治学院教会 主任牧師として最後の月
牧会56年(1958-2014年)最後の月、80歳

(上記画像は「みくにを来たらせ給え」田中忠雄 1950)

エフェソ 3章14−21節、ネヘミヤ 1章4-7節

 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソの信徒への手紙 3:16-17、新共同訳)

1.エフェソの手紙の著者は、パウロの名を語り(偽書)つつ、自らの教会のメンバーを覚えて祈っています。それが今日の箇所3章14節−21節の祈りです。

 この指導者は、パウロと同じように苦難を受けていました。

 あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。(エフェソの信徒への手紙 3:13、新共同訳)

 といっています。

 この「受苦」の系譜は大事です。

 古くは旧約聖書の「苦難の僕」(イザヤ53章)があります。イスラエル民族が補囚から解放される時、その解放のため苦難を負った指導者のことです。

 新しくは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(新約マルコ10:45)というイエス自身です。

 そしてパウロ自身も「教会の基礎」が固まってゆく為に「偽使徒」と闘いながら、つぶさに経験した使徒としての苦労を「コリント第二 11:16以下(新約 p.338)」で語ります。伝道者・牧者というものは、黙っていても多少なりとも、そのような労苦を経験しているものだと思います。

 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤの信徒への手紙 4:19、新共同訳)

 というパウロの言葉は、教会というものが、そんなに簡単に形づくられるものではないことを物語っています。このような祈りの背景を想像すると「この箇所の祈り」は尋常の祈りではないことが察せられます。教会を形成する基礎的祈りなのです。

2.まず「内なる人」が強められるように、と祈られています。「内なる人」はパウロの用語です。

 わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントの信徒への手紙 二 4:16、新共同訳)

 有名な言葉、またキリスト者が苦難にある時に、自らに言い聞かせて励ましになる言葉です。今日の前段には「御父がその霊により、力をもって」(エフェソ 3:16)とありますから、外的出来事には左右されない、内的強さを意味しています。

 いわゆる「信念・頑固、しっかり者」というのではなく、「霊の力」という神との関係による主体性の確かさです。

 次に「信仰によって……心のうちにキリストを住まわせ……愛にしっかりと立つ者としてくださるように」とありますから、神との関係による主体性は同時に、人と人との関係においては、権威関係・支配関係ではなく相互主体的な関係を生み出すものであることを信じての祈りです。

 平たくいえば「内なる人」が強いということは、「共に生きる」「一緒に生きる」ことに開かれた関係が持てる人だ、とうことです。

「人の知識をはるかに超えるこの愛」が自分本位・自己中心(ジコチュウ)を克服するのです。「キリストの……」という接頭語がつかない「愛」は、「愛は惜しみ無く奪う」という、愛の名による収奪関係です。

「教会」はこのような祈りが密かに力になっているところです。

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