神の国を受け継ぐ者(1999 礼拝説教・神戸)

1999.2.14、神戸教会 礼拝説教

エフェソ 4:25-5:5(新共同訳見出し「新しい生き方」)

 私たちは、或る人がどんな人かを印象付けられる場合、その人が何を言っているかということよりも、どのような振る舞いをしているかという方が心に残るのではないでしょうか。

 インドにまいりまして、幾つかのキリスト教の働きを見学させて戴きましたが、大変印象的でした。マザー・テレサの名のもとに行われている施設、超教派で行われている障害児や未婚の母子のための施設・学校など実践的な働きは宗教を超えて人々に受け入れられています。

 ヒンズー教75%、イスラム教15%、キリスト教は0.2%位の国でも、病める者・弱い者を尊び、階級性を打ち破って行くという人間観は、教えよりも行動によって人々に伝えられています。その意味ではキリスト教では教えは大切ですが、教えと行為との緊張関係がそれ以上に大切です。

 新約聖書には信仰の基礎とか論理・教理の筋道に重点をおいて説き起こしている文書があります。ローマの信徒への手紙などはそれに入るでしょう。他方、実践や行いを強調している手紙もあります。ヤコブの手紙などです。エフェソの手紙はどちらかと言えば、この両者の緊張関係を伝えている手紙といえます。

 大まかに手紙を分けると、前半の1〜3章は「教会論」という信仰の論理です。後半の4〜6章は教会に属する人々が信仰を日々の生活でどのように活かし実践して行くかという「倫理」が説かれています。この二つの部分を繋ぐものとして3章の終わりに「祈り」があることは、先週の日曜日に触れました。

「倫理」という言葉を国語辞典の広辞苑で引いてみますと「人倫の道。実際道徳の規範となる原理。道徳。」とあって大変堅苦しく感じられます。

 エフェソの手紙の後半部は決してそのような規範を説いているのではありません。後半に入っては、教理と倫理の緊張関係が繰り返し説かれます。

 例えば、5章14節です。括弧に入って古代の讃美歌が引用されています。

「眠りについている者、起きよ。
 死者の中から立ち上がれ。
 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ 5:14 新共同訳)

 ここに述べられている「キリストがあなたを照らす」というのは「神の恵み」のことです。値しない者をも受け入れる神の愛を現しています。いわば信仰の根本です。その事は「起きよ」とか「立ち上がれ」という命令形の呼び掛けに応えることによって、生きて働く力となります。

 この讃美歌は古代の教会で洗礼式の時に歌われたものだそうです。エフェソ5章15節・16節は「起きよ、立ち上がれ」の内容です。

 先程読んで戴いた4章25節以下も、キリスト者の生活が神との緊張関係で営まれていることを示しています。

 ここには

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ 4:30 新共同訳)

 とあります。ここには旧約聖書イザヤ書63章10節にある「神を苦しめるイスラエルの民の姿」が思い浮かべられています。単なる規範ではなく、自分を見守るもっとも親しいものが悲しむという所から捉えられています。

 例えば、子どもがウソをついたり、自分に都合が悪いことを隠したりした時に、母親から「お母さんは悲しい」なんて言われると堪えるんじゃあないでしょうか。私にもそんな経験があります。

 エフェソの手紙に記されている戒めや倫理は、抽象的にいわれている訳ではなく、当時の教会の人々が世の中で適当に生きないで、キリストのことを意識して「活きて働く神、聖霊を悲しませることのないように」すこし気張って生きるようにとの促しが勧められています。

 当時の社会では、偽りを言って平気な人が多かったのでしょうか。それが平気になるような感覚からは抜け出して、人間はみんな「繋がりの中に生きている」感覚を持とうという促しです。

 エフェソの手紙では特に社会的なことが記されている訳ではありませんが、社会の基礎になるような一人一人の生き方の確かさを求めています。すでに身に染み込んでしまったもろもろの悪を脱ぎ捨てることが求められています。前の段落で使われた、古い人を脱ぎ捨て(”ティテイミー”)という単語が「偽りを捨て」と繰り返し用いられています。

 31節にも「捨てなさい」が繰り返されます。キリスト者の生き方は、何かを身に付ける事より「捨てること」に強調点が置かれていることに目を留めてみたいとおもいます。

 捨てることによって恵みの入り込む余地ができる。 

 31節を読むと、相当にひどい現実が感じられる。諸教会の間の争いや教会内のいろいろなセクトの緊張や対立があったかもしれない。

 この意気消沈させるような描写に対して32節は憐れみと赦しが語られる。「赦し合いなさい」のギリシャ語は「恵みとして与える」とか「無償で与える」とか「赦す」といった意味の言葉です。

 神の恵みを暗示する言葉です。

 5章2節では、キリストが「香り」として表現されています。旧約聖書のはん祭のことが背景にあります。フィリピの信徒への手紙では(フィリピ 4:18)キリスト者の存在そのものを言っています。

 私は先週、京都教区府下地区の「2・11集会」に招かれて「新ガイドラインと教会」のテーマで集まりに参加させて戴きました。亀岡、綾部、福知山、舞鶴、宮津などの10の教会・伝道所で構成されている小さな地区です。参加している方々は私より高齢の方が大半でした。

 しかし討論は実に熱心で、信仰と生活の緊張を生き抜いてこられた香りの漂う集会でした。

 核持ち込みを防ぐ神戸方式は今どうなっているのか、空港問題を住民投票から取り組んでいる運動は今どうなっているのか、など聞かれました。

 因習の強い農村地帯でキリスト者として生き抜くには、ほんとうに一人一人がしっかりしていなければなりませんが「神の国を受け継ぐ者とはこういう人たちのことなのだ」との思いを与えられました。

この日の「牧会祈祷」

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