夜 − 実存に目覚める時(2012 聖書の集い 39)

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第39回「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」⑥
ヨハネ福音書3章1節-9節

1-1、聖書を取り上げての学びには、いろいろな方法がある。概説的な学び。この書物が、どんな書物で、何を目的に、いつ頃だれから誰に書かれた書物か。何が書かれているのか、歴史的にどのような影響を人々に与えて、文化的、思想的にどんな意義を持ってきた書物なのか、などを学ぶ知的学びである。「朝日カルチャーセンター」などの方法である。それよりも少し違った角度で、人生論的、あるいは価値観的(社会批判的)、「神学的(信仰的)」視点を含めての学びがある。広くキリスト教的学びと言ってよい。キリスト教主義学校・運動(YMCA など)での学びであろう。さらに聖書を『神の言葉」 (解釈の方法には、逐語霊感説から、歴史批判的聖書学の方法を駆使した解釈まで幅はある)として共同で読む読み方がある。これは教会の読み方である。いわゆる「説教」はこの方法で聖書との対話をしている。

1 -2、いずれの学び方にしろ、聖書が、伝えるべくして持っているメッセージの伝え方の一つに、象徴的なメタファー(隠喩、あるものを別なものに嘗える語法)を用いて伝達する方法がとられている。メタファーは表現の文学的方法の一つであるが、聖書を読む場合には意識して、聖書の持っているメタファーには注意を払わねばならないのではないか。そこを、特に取り上げて、何回かの学びを続けてきた。「光」「子羊」「パン」「羊飼い」「ぶどうの木」「夜」などである。 、ヨハネ福音書を読むばあい、当然、概説的学び、人生論的・価値観的・神学的学びは必要である。しかし、この文書にはことさら、メタファーが用いられている。


2、今日は「夜」を取り上げる。「夜(ヌックス)」という言葉は、新約聖書53回(パウロ11、ヨハネ6、使徒16、共観20)出てくる。旧約聖書で約200回用いられているが、その宗教的用語法が新約聖書にも影響を与えている。創世記(5:1) の創造物語によれば、言葉が混沌とした闇を貫いて闇を主(ヤハウェ)の支配する領域として「夜」 に変えたとある。故に夜は神の栄光を告げる、人間に神の意思を伝え、祈りへと招き入れ、驚くべき救いをもたらす時として理解されている。また一方で、反ヤハウェの悪の諸力の活動領域、犯罪や恐怖、さらには陰府(よみ)を暗示する意味で使われる。
新約聖書では時間的意味で使われる例はほとんど見られない。多くは神学的象徴機能を担って使われている。終末論的救済の時、審判の時、信仰の決断の時、神の働きが持続する夜(3日3晩、40日40夜、「昼も夜も」という表現)として用いられている。ヨハネには次の5か所に「夜」が出てくる。①3:2  ②9:4 ③11:10 ④13:30 ⑤19:39。そのうちの2か所は、ニコデモに関係している。①、⑤。

3-1、ニコデモはユダヤ人の指導者あった。「金もちで…イエスの弟子であった」(マタイ)、「身分の高い議員、勇気をだして(遺体ひきとり)」 (マルコ)、「善良な正しい人で・・同僚の決議に同意しなかった」 (ルカ)、 「弟子でありながらユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」、イエスを理解し議会で弁護もしている(7:50-52, ヨハネ)。ニコデモが「夜」イエスを訪ねたのは、ユダヤ人をはばかつてという理解もある。しかし、自立した議員でありこの解釈はちょっと違う。「夜」は決断の時を象徴している例が新約の他の箇所に多い。夜に旅立つ(マタ2:14) 夜弟子はイエスに蹟く(マタ26:34) 、家族と共に洗礼を受ける(使徒16:33) 、決断を促す勧告(テサⅠ, 5:5,7) など。「かつて、ある夜、イエスのもの来たことのあるニコデモ」 (19:39) という表現は、「夜」 がニコデモの内面的改心を強調する。

3-2、昼間のマルキス卜、夜の実存主義者などと「戦後」の青年の心のありようを表現した言葉がある。人間の内面的思考や決断を象徴しているフレーズである。
「夜」に象徴される精神や心の営みを大切にしたい。