夜 − 実存に目覚める時(2012 ヨハネ ⑥)

2012.7.4、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第39回、「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」⑥

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

ヨハネ福音書 3章1節ー9節

1.聖書を取り上げての学びには、いろいろな方法がある。

 概説的な学び。この書物が、どんな書物で、何を目的に、いつ頃誰から誰に書かれた書物か。何が書かれているのか、歴史的にどのような影響を人々に与えて、文化的、思想的にどんな意義を持ってきた書物なのか、などを学ぶ知的学びである。「朝日カルチャーセンター」などの方法である。

 それよりも少し違った角度で、人生論的、あるいは価値観的(社会批判的)、「神学的(信仰的)」視点を含めての学びがある。広くキリスト教的学びと言ってよい。キリスト教主義学校・運動(YMCAなど)での学びであろう。

 さらに聖書を「神の言葉」(解釈の方法には、逐語霊感説から、歴史批判的聖書学の方法を駆使した解釈まで幅はある)として共同で読む読み方がある。これは教会の読み方である。いわゆる「説教」はこの方法で聖書との対話をしている。

2.いずれの学び方にしろ、聖書が、伝えるべくして持っているメッセージの伝え方の一つに、象徴的なメタファー(隠喩、あるものを別なものに喩える語法)を用いて伝達する方法がとられている。

 メタファーは表現の文学的方法の一つであるが、聖書を読む場合には、特に意識して、聖書の持っているメタファーには注意を払わねばならないのではないか。そこを、特に取り上げて、何回かの学びを続けてきた。

」「」「パン」「羊飼い」「ぶどうの木」「」などである。

 ヨハネ福音書を読む場合、当然、概説的学び、人生論的・価値観的・神学的学びは必要である。しかし、この文書には殊更メタファーが用いられている。

3.今日は「夜」を取り上げる。

夜(ヌックス)」という言葉は、新約聖書に53回(パウロ11、ヨハネ6、使徒16、共観福音書20)出てくる。旧約聖書では約200回用いられているが、その宗教的用語法が新約聖書にも影響を与えている。

 創世記(5:1)の創造物語によれば、言葉が混沌とした闇を貫いて闇を主(ヤハウェ)の支配する領域として「夜」 に変えたとある。故に夜は神の栄光を告げる、人間に神の意思を伝え、祈りへと招き入れ、驚くべき救いをもたらす時として理解されている。また一方で、反ヤハウェの悪の諸力の活動領域、犯罪や恐怖、さらには陰府(よみ)を暗示する意味で使われる。

 新約聖書では時間的意味で使われる例はほとんど見られない。多くは神学的象徴機能を担って使われている。終末論的救済の時、審判の時、信仰の決断の時、神の働きが持続する夜(三日三晩、四十日四十夜、「昼も夜も」という表現)として用いられている。ヨハネには次の5か所に「夜」が出てくる。①3:2  ②9:4 ③11:10 ④13:30 ⑤19:39。そのうちの2か所は、ニコデモに関係している。①、⑤。

4.ニコデモはユダヤ人の指導者あった。「金もちで…イエスの弟子であった」(マタイ)、「身分の高い議員、勇気をだして(遺体ひきとり)」(マルコ)、「善良な正しい人で……同僚の決議に同意しなかった」(ルカ)、「弟子でありながらユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」、イエスを理解し議会で弁護もしている(ヨハネ 7:50-52)。

 ニコデモが「夜」イエスを訪ねたのは、ユダヤ人をはばかってという理解もある。しかし、自立した議員であり、この解釈はちょっと違う。

「夜」は決断の時を象徴している例が新約の他の箇所に多い。

「夜に旅立つ(マタ2:14)」
(ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、……)

「 夜、弟子はイエスに躓く(マタ26:34)」
(「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」)

「家族と共に洗礼を受ける(使徒16:33)」
(まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。)

「決断を促す勧告(テサⅠ5:5、5:7)」
(あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。)など。

かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(ヨハネ19:39)

 という表現は、「夜」 がニコデモの内面的改心を強調する。

5.「昼間のマルキス卜、夜の実存主義者」などと「戦後」の青年の心のありようを表現した言葉がある。人間の内面的思考や決断を象徴しているフレーズである。

「夜」に象徴される精神や心の営みを大切にしたい。

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