水、この日常的なものが永遠の命の象徴となる − サマリアの女の話(2012 ヨハネ ②)

2012.5.16、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第35回、「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」②

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

ヨハネ福音書 4章7節-15節

1.「イエスとサマリアの女」(4章1節~42節)のお話は、福音書では有名な話であるが、共観福音書にはない。ヨハネ福音書だけにある話である。

 今日、朗読した7節~15節はその一部である。このお話では「サマリア」とは何かについて、基礎知識が必要である。聖書辞典などを引くと膨大な記述があるので、広辞苑を見ておこう。

「① 古代パレスチナの都市。前9世紀イスラエル王国の首都として建設。同王国の滅亡後、この地に住む人々はユダヤ人から異教徒とみなされた。② パレスチナ中部の丘陵地帯の地方名。」

 これだけあれば何とかなるであろう。ナザレ地方からエルサレムに旅するのに、ユダヤ人はサマリア地方を通らなかった。イエスは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」(3節)とあるが、その旅であえてイエスがサマリヤを通ったのは、ユダヤ人のサマリア人への「民族」差別に挑戦をしたことを示唆している。

2.舞台はヤコブの井戸辺である。これは、創世記(29章)に出てくるお話が土台にある。羊に水を与えた大切な井戸である。しかし、それを凌駕する「永遠の命の水」を与えるイエスはヤコブ(旧約)を超える者として描かれる。

 イエスは旅の疲れの中で、女に「水を飲ませてください」と懇願する。ユダヤ人のイエスが、水を求める立場の不可思議さが、女の心を開く。

この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ 4:14)

 イエスの自己啓示の言葉に、立場の転倒が起こる。そうしてここでは「水」は「永遠に至る水」としてこの福音書の主題である「救い」に結びついてゆく。

3.聖書と水

 聖書の風土は水に乏しく、その確保が死活問題の風土である。日本は水の豊かな国であり、水が災害、治水などと結び付く国とは思考の違いがある。

 聖書では「水」は、神やキリストから与えられる祝福の象徴となる(創2:6)。来るべき(終末)のビジョンとなる(エゼ47:1)。神ヤハウエ自身が水にたとえられる(エレ 2:13、詩編 36:10)。新約ではキリストそのものを指す(ヨハ 4:14、黙 21:6)。洗礼(マタ 3:11)、聖霊(ヨハ 3:5)。その他「水一杯でも飲ませてくれる」(マコ 9:41)は愛の象徴となっている。

 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ 9:41)

 しかし他方、ノアの洪水の物語(創世記 6-9章)や混沌の象徴(ヨブ 26:12)ともなり否定的な意味も表している。積極的象徴との両義性がある。

4.「水」は余りにも日常的なもので、それが欠乏した時、あるいは異常な威力をもった時に、改めて意識する。健康にとって水が特別な意味をもつ時、災害で水がない時、同じく災害で水が被害をもたらす時(洪水、津波)、気候の変動で水が不足する時、水との関わりで、生命が活かされたり、失われたりする。

 その水を象徴として、人間の生物学的生命を超えた、人間存在の生死を含む命の問題を、意識させることに於いて水は日常的でありながら、存在の根源を示唆する「救いの問題」「永遠の生命の問題」「存在の意味」を象徴するものである。

 日常的なものの背後に、あるいはそれを象徴として「救いの問題」を触発され、気づき、絶えず抱え込むのが「宗教の問題」である。

「宗教なしで生きる」ということが、一種の逆説であって、それが日常の生の豊かさになればそれに越したことはない。「強い人間」なのである。だがイエスはあえて、異邦の地サマリアで渇き、孤立し、罪を負い、敵意と寂しさの中で生きている女の手にある「水」を「水」として用いた。その象徴性が鋭い。

わたしが与える水はその人の内で泉となり」(ヨハネ 4:14)というような、生き生きとして、闊達な、積極的、肯定的な生の豊かさをここに汲み取りたい。

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