起きよ、光を放て(2012 礼拝説教)

2012.5.6 明治学院教会(272)復活節 ⑤
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)

(明治学院教会牧師、健作さん79歳)

ヨハネの手紙第一 1章1節-4節、イザヤ 60章1節

1.「津波てんでんこ」と言ったのは片田敏孝氏(群馬大学教授)だった。

 3月11日、釜石市では小・中学生ほぼ全員が津波の難を逃れた。彼の防災指導の成果であった。

 4月、同氏の講演会が鎌倉市であった。参加できなかったが、聴いた人が講演の逆説性に感銘を受けたという。

「ハザードマップを信用するな」など、当日は「マップ」を作る側の行政の防災課の人もいて戸惑ったであろうという。彼は「逃げる」ということへの意識改革を説いたのである。一人一人の主体的真理というものは逆説を伴って伝えられる。

2.今日お読みした「ヨハネの手紙一」の著者は、逆説性が全く分からない厄介な相手にものを言っている。

「自分たちには罪がない」(ヨハネⅠ 1:8)と言ったのは当時のグノーシス化された信仰理解の人達のことである。当時の哲学にはグノーシス(目覚めた知識)主義があって初代教会の信仰理解に影響を与えていた。宇宙を「光と闇、善と悪」というように二元論で考え、グノーシスを究めることで人間は光に属し、救いに至るとされた。だから救いを究め救われていたキリスト者はもう罪を犯さない、という固定観念を持っていた。それに対して、著者はキリスト者も罪を犯す、問題は「自分の罪を公に言い表して」(1:9)、神の赦しを乞うことが大事だと反論した。「光の中を歩むなら」(1:7)「自分の罪を公に言い表すなら」(1:9)という、こちら側の主体的振る舞いを通して「罪から清められる」(1:7)、「あらゆる不義から清めてくださる」(1:9)というのであって、機械仕掛け(オートマチック)に救いがあるのではない、というのだ。

 自分がどう受け取るかという決断が真理の受容には伴う。実際に「ヨハネ第一」の教会の中には、観念的には「救い」に生きていると言いながら、実際には「闇の中を歩んでいる」(1:6)人がいたのあろう。

3.「神は光であって、神には闇が全くない」(1:5)と言われていることも「神には(人にはではなく)」に強調点がある。闇の現実に生きている人間は、この神の光りを、主体的に受けなければ生きることにはならない。「神が光である」事に終末論的に生きる限りにおいて、つまり、最後には闇は光には「勝たない」(口語聖書)と主体的に受け止める限りにおいて光の中を歩むことが出来る。ここのところの他の訳は「理解しなかった」(新共同訳)「阻止できなかった」(岩波訳)とある。原語は「到達する」という意味。最後には光が上回るということである。ヨハネ第一はそのことを「互いに交わりをもち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:7)と表現する。「光の中を歩む」ことは「人間の実存の一つの在り方」(ブルトマン)である。ブルトマンが「一つの」ということは決断を大事にする事を意味している。究極的な解決を神に委ねて保留しておくことが出来る在り方である。終末論的あり方とはそういう事を意味する。キリスト者とはこの保留を逆説的に抱いて生きる人間である。

4.「闇」に象徴される暗い出来事は、この連休の間を考えてもいっぱいある。

 7人も亡くなったバス事故。原発を再稼働させようとする勢力。市場原理主義を教育の世界に持ち込む「大阪府基本条例」(君が代不起立3回、クビを含む)の脅威。放射能で自宅に帰れない仮設住宅での孤独死。

 イスラエル民族が捕囚から解放されて課題山積の時

起きよ、光を放て」(イザヤ 60:1、 新共同訳)

 と激励したのは、預言者「第三イザヤ」であった。その時代も闇が地を覆っていた。

 イエスの時代もそうであった。

 私達も、この闇の時代を「闇の中の光」であるイエスに従って、また生き始めたい。

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