わたしはいのちのパンである − パンを見たらイエスを想え(2012 ヨハネ ③)

2012.5.30、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第36回、「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」③

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

ヨハネ福音書 6章22節-40節

1.「パン」はいつの時代にも、貧しい生活を強いられている者にとっては、文字通り「いのちの糧」である。最低限のパンが備えられる事は切実な願いであり、祈りである。

「主の祈り」の一節で「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ 6:11、ルカ 11:3)と祈られている。だが、そのパンがただ「満腹」というその場の充足のためにだけ求められると、そこで言う「いのち」は、肉体の生命を維持しているかもしれないが、本当の意味での「いのち」ではなくなる。

 いつの間にかその「いのち」を養っている筈のパンが、欲望、自分本位、自己充足、自己絶対化のあらわな主張になって、他者との関係を喪失させてしまう。孤立した人間は死の影を背負っている。そこで聖書は昔から

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

 という戒めを大切にしてきた。

イエスもこの言葉を繰り返した(マタイ 4:4、ルカ 4:4)。

(補)新共同訳(申命記 8:3)「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」

 パンは生存のために必要である、だがそれは人が自己絶対化を起こさないで、人間が「関係存在」であり続けるために欠かすことが出来ない象徴であるという意味で必要なのである。

 このことを一句で表現したのが「いのちのパン」という表現である。

 だから「いのちのパン」は、逆説的象徴性を含んでいる言葉である。

2.聖書では、パンに関する記事は多い。二、三、有名な記事を瞥見しておきたい。

 出エジプト記16章は、是非知っておきたい箇所である。

 エジプトの奴隷状態からモーセに率いられて脱出をしたイスラエル民族は、荒野の飢餓に晒されて、自由よりは「肉鍋の傍ら」にあこがれて、モーセに不平を言った。神は「マナ」と「うずら」を朝に夕べに与えられて、この民を養った。一日分以上の「マナ」を集めるとそれは腐った。「荒野で食べさせたパン」(出エジプト16:32)としてこれは語り伝えられている。

 余談であるが「蜜の入ったウエファースのような味」(16:31)や「これを……マナと名付けた」(16:30)にちなんで、日本の森永製菓は「マンナ」というクッキーを売り出したことは有名である。

 その他、列王記下4:42-44の「百人の人々に分け与えられたパンの話」。

 マルコの五千人への給食(マルコ 6:30-44、ルカ 9:10-17、ヨハネ 6:1-15)、四千人の給食(マルコ 8:1-13、関連個所)などは、パンに関する聖書の個所として熟知しておきたい。

3.ヨハネは6章の「五千人の給食」に続けて、「イエスはいのちのパン」の説話を語る。

 それは、給食を受けてその「奇跡」に興味を持ってついて来た群衆が、その意味を悟らず、「朽ちる食べ物」(6:27)にこだわっているという文脈で「わたしがいのちのパンである」と語られる。

 これはヨハネ6章では35節・48節で繰り返され、51節では「わたしは、天から降ってき来た生きたパンである」と説明がついて繰り返され、58節では、死に至る先祖(出エジプト)のパンとは異なり「永遠に生きる」パンであると言われている。また「人の子の肉と血」という聖餐が暗示(53節以下)されている。

 ここにはヨハネの「キリスト論」(イエス・キリストの意味)が示されている。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちの内の命はない」(52節)そして、そのいのちは「その人を終わりの日に復活させる」(54節)と、復活と関係付けて語られる。

 パンは、イエスがキリスト(救い主)であり、十字架の死を通して復活し、永遠の命を与える関係存在(神)であることのすべてを象徴している「しるし」としての意味を荷っている。パンという日常的、普遍的、食物(物質)に、神と人間とのかかわり(関係存在であるための人間の根源性を支えているもの)を「いのち」(関係)を象徴させているところに、ヨハネ福音書の特徴がある。

4.現代の問題。貧富格差・農・生産・消費・健康・貿易などへの思考の根底に「わたしはいのちのパンである」という言葉を関係付けて見ると、聖書の言葉は極めて現代的である。

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