夕暮れに佇む日雇い労働者(2012 礼拝説教)

2012.5.31 明治学院大学 横浜校舎チャペル チャペルアワー

明治学院教会牧師 健作さん 78歳

マタイ福音書20章1-15節    讃美歌121(まぶねのなかに)

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14)

 今、みなさんと一緒にお読みした聖書の、福音書のお話を、ある女子大でいたしました。みなさんはここをどう思いますか、と尋ねましたら、「このお話はおかしいと思います」という答えが返ってきました。

「朝から働いた労働者と夕方一時間ぐらいしか働かなかった者とが同じ賃金をもらったのでは、社会の秩序が乱れてしまいます」というのがその理由でした。

 もう一人の学生は「ただしこれが、天国の譬えで、神様の秩序では、人間はみんな同じだという意味だったら分かります。なぜなら宗教は心の問題を言っているので、現実の社会の事を言っているのではないですから」。

 みなさんはどう思いますか。昔、アメリカの労働者の間でこんな讃美歌の替え歌が歌われていたそうです。

「牧師が厳かに、天国を語るとき、俺たちは腹がへる。そこで牧師は、猫なで声で、お待ち、もうすぐだ、天国がやがて来る、働けー、我慢せーい、死んだらあの世で食べられる」

 これは「There‘s a land that is fairer than day…」という讃美歌(488)を風刺した替え歌でした。

 福音書のイエスは、元々この「日雇い労働者」の話を心の問題として話したのでしょうか。現代の聖書学の研究者はどなたもが、そうではないと言っています。

 イエスは現実の問題を話したのだ。心の問題の比喩として解釈したのは、後代の教会だ、と指摘しています。そうして、イエスがこのような話をしたことで、後々現実の世界がそっちの方に動いている部分があると言っています。

 例えば、日本では曲がりなりにも、医療保険が普及していて、病気になって病院へ行っても保険で支払ってくれます。もちろんそこにはそれに至るまでの長い歴史があります。保険料を生涯かけ続けてきた人で、健康なので、殆ど、病気をしたことのない人が、自分は保険を使ったことがない。病気ばかりしている人と、同じ保健料では不公平だと言っていました。

 僕の友人はこの間心臓の手術をしました。800万円かかった彼は保険なので一割負担をしただけです。保険がなければ命はなかったでしょう。しみじみ、聖書のイエスの日雇い労働者の話を実感したと言っていました。

 聖書は隠れた形で生きているのです。夕暮れまで佇んで、やきもきしていた人も同じように扱われたという話が本当に土台になっているのです。現代の現実の社会は、表向き弱肉強食の社会です。経済至上主義と言って、お金が儲かるかどうかで、ものの順位が決まってゆきます。格差社会がますます進んでゆく方向にあるのです。実は、そのような方向にもって行ってはいけないというメッセージがここにはあります。

 夕暮れに佇んでいた日雇い労働者も、同じように扱われたという、社会の方向にもって行きなさい。心の問題ではなくて「人間が生きていく上での人間の繋がりの問題なのだ」というお話なのです。もちろん、反論はあります。

 人間はずるいから平等などということを機械的に言えば、怠け者を怠けさせてしまう。本当にそうでしょうか。人は人の役に立ってお互いに繋がるとき、生きがいがあります。夕暮れの労働者もそのことを心に抱いて、朝から働いた労働者よりももっと人生の悲哀や苦しみを知っていたと思います。むしろ、こういう人の気持ちが、大事だということをイエスは指摘しているのです。

 私たち自身が夕暮れの労働者と同じ立場のこともあります。その時はこの話を励ましとして受け取りましょう。周りにこのような人の気配を感じたら、助け合ってゆきましょう。イエスはそのように私たちに繋がっているのです。イエスに繋がって生きるような促しを聖書から聴き取ってまいりましょう。

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