「婦人新報」1984年1月号(日本キリスト教婦人矯風会)
「みことばに学ぶ」欄掲載(p.22)
(神戸教会牧師5年、健作さん50歳)
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。(コリント人への第二の手紙 4章10節)
この個所は「土の器」(7節)という言葉のゆえに有名な個所である。「土の器」。そこはかとなく脆さ、弱さ、はかなさ、さらにはつつましさを漂わせるこの言葉には魅力がある。キリスト者は、へりくだった自分、弱い自分を言い表わす時、しばしば聖書のこの言葉を借用する。だが、その用い方に忍び込む謙遜への装いを警戒しなければならない。もし「真のへりくだり」「真の謙遜」があるならば、「適当な謙遜」は、真実をおおいかくすことになる。だから、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:8)というイエスのへりくだりと我々が情念のレベルでもつ「土の器」の感覚を連続的につなげてはならない。
「土の器」は、もろい器という性質を表わす語ではなく、金や銀の器のように飾ってある器でない日常用いられる器を意味する。イエスの死に結び合わされ、そして復活のいのちに活かされる(ロマ6:3)日常を言う。パウロは、「この宝(使徒の働き)」を「土の器の中に持っている」という。パウロは病気(Ⅱコリ12:7)をもち苦難や迫害を体験(Ⅱコリ4:8-9)する。そのことが語られるが、コリントの文脈では、それが途方にくれる手前のこととしてではなく、その困難を「窮しない」「行き詰まらない」「見捨てられない」「滅びない」と否定的に超えていく姿の中に「土の器」のありようを語っている。死と生を一気に捉え、語っている。十字架と復活が同時性をもち、全体的に捉えられている。それが日常性を支える福音であると思う。
私は数年前、前任地を去る時、PTAや地域の教育問題を共に考え、また闘った一人の婦人から地物の厚手の土の色の濃い湯呑をいただき今も愛用している。「私のようにくろいんじゃけー」と添えられた言葉が忘れられない。諸課題にとりくむキリスト者が「土の器」の感触をもつようにとの促しをいつも受けている。
(神戸教会牧師 岩井健作)

