1976年2月8日 岩国教会週報
「先週説教より」ルカ18:9-14
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
ふたりの人が祈るために宮にのぼった。(ルカ18:10)
パリサイ人と取税人の祈りの譬え話を読んで、自分をパリサイ人の姿の中にだけ見出す人はいない。何故なら自分を義人だと自認している者は、自分の欠けの多い姿に気が付かないからである(ルカ18:11-12)。また取税人の中にだけ自分を見る人もいない。本当に懺悔をしていると自分で思うことには、パリサイ人的なものがあるから。私たちはこの二人の間を行ったり来たりしている。そして、どちらかといえば、自分では取税人の心境をより身近に感じるだろう(実際には遠いと思うのだが)。彼の言葉(ルカ18:13)は、詩篇51篇(悔罪詩の一つ)の言葉からきている。この詩の背景には旧約のダビデがバテシバとの関係の過ちについて止めどない悔いの涙を流したように、私たちも悔いが身を覆う経験を幾らかは知っているであろう。そして、その行き着く先が、もし悔いが真実であるなら、神の赦しで押さえられている。その意味で、神の赦しの徴(しるし)として私たちは近い。けれども「イエスの近さ」は全くこの反対の極みで近いことを忘れてはならない。パリサイ人的なるものを鋭く批判するイエスの不動さが私たちを打たないであろうか。当時のパリサイ人は権力側にある者たちである(反対に韓国キリスト者が朴政権を批判する厳しさと重ね合わせて考えてみたい)。実際的な力関係の中で、人の内面までも批判するには、それだけ自分の側に厳しさが必要になる。イエスの十字架の深さがそこにある。人を甘やかさないで悔い改めへと導く愛の近さは、寄り添える近さではない。その前で、私たちは打ちのめされる。力のなさを知る。しかし「イエスの近さ」が、自分の内なるパリサイ人的なものから解き放たれて新しい自分を呼び覚ます「近さ」として響いてくるまでに信じることこそ大事なのではあるまいか。
(1976年2月1日 岩国教会 岩井健作)


