ヨブ記を再び読む《13:1-19》(2002 礼拝説教・週報・受難節)

2002.2.17、 神戸教会、神戸教会週報、
復活前第6主日・受難節第1主日

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任まで2ヶ月)

ヨブ記 13:1-19、説教題「神への申し立て」

 ヨブ記を一つの山脈になぞらえるなら、13章は連山の高峰の一つです。

 ヨブの友人エリファズは、人生経験者らしく、ヨブの苦難は彼あるいは彼の家族が、知らないうちに犯した神への罪の結果かもしれない、と言って穏やかに諭します。

 ビルダトとツォファルは、伝統的因果応報の教えに照らして「神に責められる人は幸いだ。全能者の懲らしめを軽んじてはならない」(5:7)と罪を悔い改めないヨブを激しく責めます。

”見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。”(ヨブ記 5:17、新共同訳)

”見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。”(ヨブ記 5:17、口語訳)

(今日の箇所)13章でそれは頂点に達します。

 もし、確信のない人であれば、あるいは、「僕がどこかで間違っていたのだ」と思って、突きつけられた宗教的意味で自分の苦難を解釈したかもしれません。

 しかし、ヨブにはそれが出来ないのです。

「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ記 1:8)といっているのは、ヨブではなくて、神自身です。

 だから、友人の説くところで、ヨブは「そんなことは……よく分かっている」(13:1)と反論するのです。

”そんなことはみな、わたしもこの目で見、この耳で聞いて、よく分かっている。”(ヨブ記 13:1、新共同訳)

 しかし、不条理の苦しみは、ヨブの現実なのです。

 友人たちの「ヨブの現実」への意味づけ、すなわち伝統的教義からの苦しみの解釈は、その現実に当てはまらないし、力を持たないのです。

 にもかかわらず、それを押し付けるのが、友人たちです。

 現実の苦しみという土俵で勝負をするのか、伝統的教えという土俵に引き込んで勝負をするのか、土俵の決め方の問題が厳しく争われているのです。

 言い換えれば「苦しみの現実」と「救いの教義(観念)」のどちらを土俵にするか、です。

 ヨブはこの観念の土俵をぶっ飛ばします。それを繰り返す友人に「沈黙せよ」”どうか黙ってくれ”(13:5)、「役に立たない医者だ」(13:4)と申します。

「役に立たない(”エリール”)」は”偶像”を意味する言葉です。形があって力のないものの象徴です。

 そもそも「神」が説明できるような観念体系を作ることが不遜であり、傲慢なことなのです。

 沈黙とは、自分の義を砕かれる道筋のなくてはならない経過です。その後に与えられる癒しを待つことです。

 沈黙が神の意志を聞き取る素地を生み出すのです。


 ここでは宗教の意味が問われています。日本基督教団の成立(1941年)当時、その働きを「布教」と表現し、「教義の宣布」としていました。

 しかし、その後、この世の課題を世と共に負う方向へと開かれて「宣教」という言葉でその活動を表すように変化していきました。

 これは、ヨブ記で言えば、ヨブが血みどろで抗議した「苦難の現実から始めよ」という線に近くなった、ということです。

 それは、苦難(十字架)を負う道であります。そしてイエスが歩まれた道です。

 受難節に「その道を歩ましめ給え」との祈りを熱くしたいと存じます。

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