愚かな金持ち(1975)

1976年1月4日 岩国教会週報
「先週(年末礼拝)説教より」ルカ12:13-21

(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)

ある金持ちの畑が豊作であった(ルカ12:16)

 注意深く読めば、イエスのこの譬えは「ある農夫」とは記されていない。物語を終わりまで読んでも、豊作のために労苦したであろう人たちの姿は伺えない。この金持ちは、どうしてこうも自分のことだけを考えているのであろうか。

 自分には気づかないところで、自分のために労苦を負っている身近な人たちとの「絶えざる出逢い」によって、魂の成長というものを得ていくのが人間というものであろうに、この金持ちはそうではない。

 芥川龍之介の『羅生門』ではないが、1975年の不況の中で、日本の各層がこの金持ちのように、自分のことだけを考えている姿があり、どこかの面では私たちも例外ではあり得ない。

 20節の「魂は(今夜のうちにも)とりさられる」は、直訳すれば「彼らが魂を求めている」と訳すことができる。文法的には主語は非人称の用法であるが、贖いを求める歴史の中に沈む人々の叫びを聴き取るなら「切実な公平を叫ぶ人々が求める」というニュアンスが隠れている。持たざる者から持つ者への、連帯・痛みや労苦の共有の、切なる呼びかけである。神の究極的な御心の許では、このような求めを忘れて生きてはなるまい。「みこころの天になる如く、地にもなさせ給え」という祈りを忘れてはならない。この祈りがイエス自身の歩まれた「贖(あがな)い」の道へと、私たちを導く。この祈りを持って、来たる年を迎えたい。

(1975年12月28日 年末礼拝 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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