2013.3.31、 明治学院教会(308)復活日(イースター)
(牧師として最後の復活日説教、健作さん 79歳)
ルカによる福音書 24:36-43、エレミヤ 31:10-14
”そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。”(ルカ 24:42-43、新共同訳)
1.今日は、ルカ福音書の24:36以下(”弟子たちに現れる”)を選びました。
この復活伝承の物語はルカ福音書にしか出てこない物語です。その特徴が二つあります。
① 39節「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」
② 42節「焼いた魚を……食べられた」というところです。
ルカの著者はイエスの復活という出来事(あるいは事件)から、ルカの教会に何を告げたかったのでしょうか。
現代的な答えを言い切ってしまうと、この二つ「日常性の肯定だ」と私は受け取っています。
2.日常を再び生き始める
師と慕うイエスが危険人物として十字架上で殺され、屈辱と悲惨な死を遂げたことは弟子たちにほとんど再起不能な打撃を与えたに違いありません。食事が喉を通らない現実だったと思います。
その絶望の現実の只中で、親しかった師の手足に触れることは「交わりの喜び」の確認です。
そして、食事を共にすることは「生きる力」です。それは我々が経験する最も日常的なことです。
「復活」はギリシャ語では”アナスタシス”と言います(アナ:再び、反復、上に+スタシス:立ち上がる)。
徹底的に痛めつけられた悲惨を一方で心に宿しつつも、それを携えてなお当たり前の日常を再び生き始める力と喜びに押し出されるところに復活の秘儀があります。
3.”食事”を通してイエスに出会う
ルカ福音書は、独自の食事の記事を収録しています。
三つ挙げてみます。
① 金持ちとラザロ(ルカ16章):地上では富める者の食卓から落ちるものを求める貧しい病人ラザロは天上のアブラハムとの宴席に着きます。
② 徴税人ザアカイ(ルカ19章):金と権力の亡者ザアカイはイエスと食事をして「罪の悔い改め」に導かれ、隣人から奪ったものを返し、隣人との交わりの日常性を回復して、新しい人生へと立ち上がります。
③ エマオの旅人(ルカ24章):師を失い、絶望の二人の弟子たちは、宿の食事の席で道連れの旅人が「パンを裂く」その姿に、イエスと出会います。
いずれも、食事を通して、イエスに出会う物語です。
4.日常性の象徴:焼き魚
「焼き魚」はガリラヤの庶民の日常の食材です。イエスはそれを食べることで、イエスが彼らと「再び」共にいることを顕します。
普通「日常性」は死んだら終わりです。
今、社会問題になっている多くの自殺者は、生活のやりくりや人間関係など、日常性が行き詰まり、病的に絶望して死を選びます。ご飯を食べることや、親しい者と言葉を交わすことなど、ささいな日常性が肯定されていれば、死を急ぐことはなかったでありましょう。
身近な者には「一緒にいる」我が身が否定されたと感じ、打撃を受け、無力感に襲われます。だが、死にたいほど辛くても「なお生きていて良いのだ」というメッセージを与えるのが、イエスの復活です。
渋くて、重い、その日常性が「死に至る病」を抱え込んでいるのも現実です。しかし「復活のいのち」がそれを相対化し、それに足を取られないために、ささいな日常性もが肯定されていいのだよ、と。
「一切れの焼き魚」はそれを象徴しています。
私たちは、日常のささいなことをいとおしみつつ、それでいてそのささいな日常性を奪う、巨大な社会的・権力的「悪」に対処しつつ生きて参りたいと思います。
焼き魚を食べるイエスにユーモアを感じつつ。
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