2013.3.17、明治学院教会(307)受難節 ⑤
(明治学院教会牧師、健作さん79歳)
イザヤ 53:1-10、ヨハネ 12:20-26
”一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ”(ヨハネによる福音書 12:24、新共同訳)
1.「一粒の麦」といったら、皆さんは何を連想するだろうか。
それはイエスの生涯、十字架の死と復活だよ、と信仰の大先輩にピシャリとやられたことを思い出す。そりゃあそうだが。
その投影として、僕は幼くして天に召された星のような子どもたちを連想する。その名が脳裏をかすめる。その子たちは召されたが、その後、実に多くの驚くべき命の営み、そして物語が残された者たちの間に展開された。
2.「死ねば多くの実を結ぶ」(12:24)は「逆説」である。
今日のヨハネのテキストの小見出しは「ギリシア人、イエスに会いに来る」となっている。「神の選びの民」を自認するあのユダヤ人ではなくてギリシア人(異邦人)が「いのち」を求めてイエスを訪ねてくる。逆説である。
イエスはいきなり「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と語る。「人の子」の称号は旧約の黙示文学の伝統では、メシア(救い主)。
だから、メシアがローマを打ち破り、イスラエルの王国を回復する栄光の時が来た、と受け取りかねない。だが、ヨハネはこの力のメシア観の枠組みを用いて、中身は全く逆のことを述べる。
栄光を受けるとはイエスの十字架の死を意味する。「栄光」の意味が全く異なる。そこにこそ「逆説」が秘められている。
24節の「一粒の麦」の表現は、象徴的・文学的で大変わかりやすい。私は中高生の頃、両親の農村開拓伝道を手伝い、麦作が生計そのものであったので、麦が「死と命」の象徴であることを体で覚えた。麦作の経験のない人も元の種が朽ちてこそ芽が出る植物の命の継承はよくご存じであろう。
3.25節−26節では、事柄をもう一度説明的に言い換える。
共観福音書の同じ箇所と表現は少し異なる(参照:マタイ10:39、マルコ 8:35、ルカ 9:24)。
自分の命(プシケー、自然の生命、自己保存的生命)と永遠の命(ゾーエー、神との関係の命、霊的生命)が使い分けられている。
「憎む」を福音書の「捨てる」に代わって用いたのは、決断より情念の世界がより根源的なのであろうか(申命記 21:15、マタイ6:4参照)。
自分本位か、他者との共存か、の選択をすることは常に難しいことだが、共存は常に豊かな実を結ぶ。だがその折り返し点にこそ「十字架の死」との結びつきがある。
4.映画監督・新藤兼人さんの最後の最高傑作の映画に「一枚のハガキ」がある。
物語は、妻を想う一人の兵士の戦争死から展開する。
「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので何の風情もありません。友子」
という、妻が出したハガキを確かに受け取ったことを知らせる、生き残った友人兵士と”大竹しのぶ”演じるその妻との物語である。
新藤監督はそのテーマを「一粒の麦」のイメージで結ぶ。自筆で聖書の言葉を書いている。
そして、ラストシーンは、麦秋の明るい小麦畑でその二人が手を繋ぐ。
meigaku_iwai_307◀️ 2013年 礼拝説教