2013.3.10、明治学院教会(306)受難節 ④
(明治学院教会牧師、健作さん79歳)
イザヤ 53:1-6、マタイ16:21-28、マルコ8:31-37
”イエスは振り向いてペトロに言われた”(マタイ 16:23)
”ペトロを叱って言われた”(マルコ 8:33)
1.この聖書の箇所「受難予告」は、昔から受難節に読まれてきたテキストです。
今日はマタイを読みました。元来はマルコが原典です。
この「受難予告」は福音書全体の「分水嶺」です。ガリラヤの伝道活動が終わり、エルサレムを舞台として受難劇が「始められた」(マタイ 16:21)、その境です。
弟子たちの最初の「招き」から、新たな再度の「招き」が始まるのです。
その境の出来事に「ペトロが叱られる」物語が来ます。
マタイ成立は紀元1世紀で「一番弟子ペトロを庇う教会の守りの姿勢」が見られます。
「叱られる」を削除してしまいました。また「邪魔をする者」(マタイ16:23)と加えて「弟子の無理解」というマルコの基調を緩めます。
また「招き」からマルコの「群衆」を外し、「弟子」のみに限定します。マルコでは群衆も招かれているのです。マタイはペトロを教会の中心人物としています(16:18)。
2.21節の「必ず……することになっている」に注目ください。
長老・祭司長・律法学者たちのあたかも神の代理人であるかのごとき宗教的・政治的権威の「力」が破られるためには、僕(しもべ)の姿をとる一人の人の受難の死が、「必ず」必要だ、と言っています。
「神の必然」です。「神の子羊」(ヨハネ1:29)、イエスの存在そのものの「逆説」の始まりなのです。
(難波幸矢さんは、人生で「わたしはあなたと結婚してよかった」と二度言います。二度目は死に向かう難病の夫・紘一さんとの厳しい葛藤を経た後の逆説的告白でした。)
3.弟子ペトロは弟子を代表してこの「逆説」を妨害するのです。
”イエスをわきへお連れして、いさめ始めた”(16:22)
ペトロは長老たちの「力」の論理と同質なのです。長老・祭司長・律法学者のように、自己を正当化して、力で物事を突破するのは「サタンの力」の仕業です。サタンの力から自由になれというイエスの言葉があの「叱責」です。
4.
”自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”(マタイ 16:24)
これは「自分の死に場所」から逃げてはならないということです。
D・ボンヘッファーは「イエスが人を招く時、彼はその人に、来て、死ぬことを命じる」と言っています。
マルコは「わたしのため、また福音のため」とイエスと福音とを同列に並べます。マタイは「福音」を削除しました。マルコは「力によらない生き方」をより客観化しているのです。
自分を捨てることは、自分の力でできることではなく、自分が神のものであって、神が「自分を捨てること」の根源で働き給うことを信じることの中で起きる出来事です。
「福音のため」とは「福音により頼んで」ということです。
5.「叱責」は人格の全面否定ではありません。
福音により頼まない生き方から、より頼む生き方へと、引き込み、招く後押しです。自分にとって不都合な出来事に出会った時、それをどう受け取るかが大事です。
そこにはきっと「自分本位を捨てること、責任からの逃げを止めること」への神の促しが、「叱責」として含意されています。
meigaku_iwai_306◀️ 2013年 礼拝説教