2013.3.3、明治学院教会(305)受難節 ③
(明治学院教会牧師、健作さん79歳)
創世記 2:4-9、Ⅱコリント 4:7-15
1.コリントの信徒への手紙
コリントの街での伝道は、パウロにとって価値観の闘いであった。
貿易の港町、商業都市のお金、権力・地位・家柄・学識など、世俗的価値観と「イエス・キリストの十字架の福音」即「愛」を基礎とする価値観との闘いであった。
その軋轢のゆえに起きる現実問題に指示を与えたのが「コリントの信徒への手紙 第一」であった。
これに対して「第二の手紙」はユダヤ的伝統を持つエルサレム教会の権威主義者の推薦状を傘にして、パウロの使徒職の正統性を攻撃する人々、初心の福音から逸脱した人々に対する、パウロの、自己をさらけ出し、自己の実存をかけた、反対者への批判を記した、血みどろの戦いの記録である。
パウロはその間「苦難と慰めの同時性」(1章)を自ら体験し、また対立者を和解に向かわしめた福音を「弱い時にこそ強い」という逆説で語っている。
2.逆説としての”土の器”
パウロは外部からの迫害、教会内部の中傷という試練に打ちひしがれつつ、それだからこそ福音の真髄を
”わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。”(Ⅱコリント 4:10-11、新共同訳)
と逆説を語っている。
これを非常に象徴的に表現した言葉が
”このような宝を土の器に納めています”(Ⅱコリント 4:7)
である。
3.逆説:十字架に死んだイエス
コリントは紀元前7世紀頃から芸術的な陶器の産地として有名であった。しかし、パウロの言う「土の器」は素焼きの日常使う土器を意味した。まして金銀の器ではない。
そこには
”土の器のかけらにすぎない”(イザヤ45:9)
”造られた者””造った者”(ローマ 9:20)の(被創造者と創造者、陶工と粘土)の関係
”土(アダーマ)の塵で人(アダム)を形づくり”(創世記 2:7)
などの聖書の持っている「土」のイメージが盛り込まれている。パウロは
”誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう”(Ⅱコリント 11:30)
”弱さ以外には誇るつもりはありません”(Ⅱコリント 12:5)
”「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」”(Ⅱコリント 12:9)
”わたしは弱いときにこそ強い”(Ⅱコリント 12:20)
という逆説を身につけている。
そこがパウロの「十字架に死んだイエス」という根本の信仰であった。
逆説とは何か?
価値の転換である。行き詰まりを突破する力である。(諺にも”急がば回れ”、”負けるが勝ち”、”急いては事を仕損じる”等がある)
4.
「土の器」というイメージは現代的響きを持っている。そもそもイエスの存在の逆説のイメージと重なる。
「十字架の死」そのものが逆説である。
死を負ったありのままでよい。ここが大きな慰めになる。
作家・阪田寛夫さんの小説『土の器』(1984:第72回芥川賞受賞作)は、母の闘病と死を扱ったものであるが、とびきり熱心なキリスト者の母も、またそれを囲み看取った者たちも「脆(もろ)い素焼きの器たち」と書かれている。
それでいて「根本の地軸をいま傾けつつある何か」(引用者注:神)が示唆されている。信仰者は「土の器」であるが、そこに託された逆説が、人々に感銘を与える。
meigaku_iwai_305◀️ 2013年 礼拝説教