見えるものにではなく、見えないものに(2013 礼拝説教・パウロ)

2013.2.24、明治学院教会(304)受難節 ②

イザヤ52:7-10、Ⅱコリント 4:16-18

見えるものにではなく、見えないものに”(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18)

1.転換点の力

”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。”(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18、新共同訳)

 皆さん、良い言葉だとお思いになりませんか。私もそう思います。ある新婚の家庭の方が「私たちは物質的には貧しいけれど、与えられている愛に目を注いで励んでみます」と言われました。

 確かにこの言葉には格言的な力があります。しかし、この言葉を語るまでのパウロにはそれなりの経過があります。

 見えるものから見えないものへ目を注ぐ、その転換点をもたらした「力」は何だったのでしょうか。そこを読み取りたいと思います。

2.外見の惨めさを経験 〜 神の恵みの確かさ 〜 イエスの死に与かる

 ここに至るまでに三つの過程があります。

① 外見の惨めさを経験

 パウロはこれをいやと言うほど経験します(参照:Ⅱコリント11章)

”わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。……死の宣告を受けた思いでした。”(Ⅱコリント 1:8-9)

 これは迫害のことです。加えて「あらゆる教会についての心配事」(Ⅱコリント11:28)がのしかかります。

 さすがに強靭なパウロにも疲労困憊が滲み出ました。だからこそ、外見の見える事柄が一層気になるのが人間です。あえて「見えるものではなく」と強調する所以です。

② 神の恵みの確かさ

「神の憐れみを受けたもの」の確かさが元気を取り戻させます。

”憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。”(Ⅱコリント4:1、新共同訳)

”途方に暮れても失望せず”(4:8)

と果敢に語ります。

”「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。”(4:16)

 神の憐れみの根源的事実が彼を強めます。

 特に、彼は「委ねられた務め」を

”キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている。”(フィリピ 1:29)

 と捉えます。

③ イエスの死に与かる

 パウロは自分の外見の衰えを、神学的な言葉ではこう言っています。

”わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。”(Ⅱコリント 4:10-11、新共同訳)

 イエスの死は、権力による十字架の死です。人間の惨めさのどん底の死です。

 私たちが困惑する時、イエスの死を想起します。なぜ想起するのでしょうか?

”もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。”(ローマの信徒への手紙 6:5、新共同訳)

 と、そこにこそ「命」があるからです

3.己に死ぬ

 パウロは「イエスの死に与かる」ことを、洗礼と関係付けています。

”死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けた”(ローマ 6:3)

”洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ”(ローマ 6:4)

 と言っています。洗礼はなぜ受けるのでしょうか?

「恵みの徴」という意味を担っています。内実を「しるし」で確認することは私たちもプレゼントのやり取りなどでしています。しかし、それだけではありません。

 私たちが自分本位・自己中心(罪)に死ぬための振る舞いを、イエスの「死の姿にあやかる」(ローマ 6:5)と言っています。

 自分に死ねない「わがまま」な人は、本当の意味での共同性を作り出すことはできません。ここが「見えるものは過ぎ去る」という意味です。

 死を媒介しない「交わり(共同性)」は所詮虚構です。

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