1975年11月30日 待降節(アドヴェント)
岩国教会週報「先週説教より」マタイ25:1-13
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
油を用意していた(マタイ25:4)
教会の暦は、待降節の「待つ」ことから始まって、終末主日の「感謝」に終わっている。信仰生活は人生の旅の途上の生であるから、どこかが終わりで完結するものではない。しかし、待つ、耐える、苦しむ、悲しむ、怒る、恨む、という連鎖の中に、喜ぶ、希望、感謝がつながっていることは事実であり、しかもこの連鎖に感謝で区切りをつける決断が信仰というものであろう。感謝が気持ちの持ちようという形式に堕すならば、それは体制の論理に味方して権力を持つ者らを利するであろう。感謝一般ではなく、感謝で区切りをつける決断のありように注目したい。
福音書の譬えの「油」は、花婿の来場に(キリストの来臨=神の側の主導による働きかけ)思慮深くあれと言っている。こちら側で関係が切れてしまったと思っても、なお向こう側で確かに関わり続ける愛があるならば、それを受け入れることは感謝である。このようなところで、一つ一つを締め括って生きる生き方が信仰生活である。疑いやはみ出た部分(皆居眠りをして 5節)があるにもかかわらず信仰の決断をまた繰り返す人生に生きることをこそ感謝したい。
(1975年11月30日 待降節第一 岩井健作)


