自分の持場(1975)

1975年9月14日 岩国教会週報
「先週説教より」ガラテヤ 6:6-18

(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)

だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。(ガラテヤ6:10)

 ここで「仲間」と訳されている言葉は、字義通りにいうと「同じ家」という意味である。「家」は広い意味を持つ。住まいであり、家族である。人はそこで生まれ、育ち、学び、働き、病んで、そして死を看取られていく。人と一生の抜き差しならない場である。信仰も、そのような場で起こる様々な問題と絡み合ってはじめて活きてくる。そこを避けては抽象論である。パウロは「愛の奉仕」を「神の恵み(=御霊の実)」の現れとして説き、「だれに対しても」(6:10)と広がりを示す。けれども「信仰の仲間に」と重点をおく。彼の思想の他の批判点も含めて、これを「教会中心主義的な内向き志向」と批判はできる。しかし、ガラテヤ教会の問題に労苦する中での発言という点を見逃してはならない。抜き差しならない場での愛は、全体的視野から隠されることがある。状況への密着がそうさせる。しかし、なおその場で情熱を持つことが、自分の持ち場への関わりというものではあるまいか。私たちは「とくに」(6:10)という、パウロの言う信仰が養われていく場を各人が見定めていきたい。溝口正著『自治会と神社:「町のヤスクニ」を糺す』(すぐ書房 1975年5月)を読んだ。浜松市で、自治会と神社の分離をはっきりさせるために、20年も弛まずに自分の場を見定めつつ戦ってきた息の長さに、事柄を曖昧にしている自分が撃たれる思いだった。

(1975年9月7日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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