1984年10月28日、降誕前第9主日、
神戸教会創立110周年記念礼拝週報
「神戸教会110周年のつどい」告知
翌週「永眠者記念礼拝」
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)
この日の説教:Ⅱコリント 3:1-3、「見えない歴史」岩井健作
教会の歴史を紐解いてみる時、邪教キリスト教を論駁するために「敵(キリスト教)」に近づいたのに、逆にキリスト教の担い手となったという顕著な例を知らされる。
神戸教会では松山高吉(たかよし)牧師、森田金蔵執事の入信はその例にあたる。
(サイト補足)松山高吉:1847-1935年、1874年(明治7)摂津第一公会・現神戸教会の初代受洗者、1880-84年 摂津第一公会初代牧師。宣教師を助けて、1874-79年「新約聖書」文語訳、1884-87年「旧約聖書」文語訳、1910-17年「新約聖書」改訂に従事。神戸女学院、同志社、平安女学院で教師を歴任。
(サイト補足)森田金蔵:1866-1940年、1895年(明治28)より日本組合神戸基督教会・現神戸教会の会員・執事、大沢商会神戸支店支配人、帝国鉄工社長、赤心社第二代社長、神戸貿易組合長、神戸生糸取引所理事長等歴任、1924年(大正13)衆議院議員当選。また神戸基督教青年会理事長、同志社評議員、神戸女学院幹事、神戸真生塾理事長等を歴任。
このことは日本に於けるキリスト教受容が、西欧キリスト教への没入的改心ではなく、自分たちの宗教や文化への問いかけと自己変容をもたらしつつ受容されたと言うことが出来る。
小川圭司氏は「日本人とキリスト教との出会い」(「福音と世界」1983年12月号、新教出版社)の中で、非キリスト教文化圏での教会形成には二つの型があると言う。
第一は「プロパガンダ型・布教型」。
これは西欧キリスト教社会の絶対的優位のもとに、その文明や価値観が導入されつつ布教がなされる型である。
第二は「ミッション型・宣教型」。
これは普遍救済の立場から、異なった文化の中にも「神の宣教」を認め、そこに遣わされて、そこで神の僕として仕える使命を果たすという関わりを持つ型である。
小川氏の分析では、日本では明治20年代、すなわち「明治絶対主義」政権が確立されるまでは、日本の教会は「ミッション型」であったが、その後「プロパガンダ型」に変わったという。
そして布教の拠点としての教会を守ることが国家の要請のもとでの「日本基督教団」の成立に繋がっていった、と小川氏は見る。
そのような視点からすれば、第二次大戦後、日本基督教団は「戦争責任告白」をなし(1967年)、1970年代の「万博問題」を経て、再び「ミッション型」の教会へと自己変革しつつあると考えられる。
日本基督教団はこの11月12日から14日まで、第23回総会を行う。
そこで討議される議題の主なものに次のようなものがある。
・社会活動基本方針の再検討を開始する件
・沖縄教団との合同のとらえなおし
・在日大韓基督教会宣教協力献金の推進
・教団の教師養成問題
・会議制の問題
一つひとつがなかなか大変な内容である。
しかし、それを大きく方向づけているものは「ミッション型教会への自己変革」と捉えられよう。
かつて、岩村昇医師は「なぜネパールへ行くのか」との問いに「その地にキリストが在すから」と答えた。
ミッションの意味をよく示している。
創立110周年を迎える年、私たちはパウロを学んでいる。
大まかな捉え方だが、これまで私たちはパウロを「プロパガンダ的教会」の武器として学んではいなかったであろうか。
パウロは自らが獲得した福音の価値観をプロパガンダ(宣伝)することを伝道の使命としたであろうか。
むしろ、ギリシア世界の人々とも、エルサレム教会の人々とも、悩みを共有しつつ、教会形成をミッション(派遣された場で生きること)として捉えたのでないか。
(1984年10月28日 神戸教会週報 岩井健作)
1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)