1975年6月8日 岩国教会週報
「先週説教より」マルコ10:13-16
(岩国教会牧師11年度、健作さん41歳)
イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。…手をその上において祝福された。(マルコ10:13-16)
イエスと幼児の祝福の福音書の記事は、幼児の無垢なことが神の国への「近さ」を示しているというような理解をなされがちであるが、そういう理解は少し身勝手で、テキストに忠実ではない。幼児も罪のうちにあることに少しも変わりはない(創世記 8:21)。この箇所で重要なことは、大人も子供も一緒になって神の前に「成熟」しているということである。その場合、二つのことを分けて考えねばならぬ。一つは、根本的には神の国が幼な子のような者の国であること。弱い者、いと小さい者、それゆえに、神の国とは全ての人が活かされるあり方の国であるということである。例えば、私たちは大人も子供も、求道者も信者も、「共に」礼拝を守る。巨視的には誰もが分かち難く祝福を受ける者とされている。本テキストで、子供を大人から分かつ弟子たちをイエスが憤っていることを、私たちは忘れてはならない。第二は、大人の責任ということ。大人も信仰の成熟、人格の成熟に向かって励んでいるわけだが、子供はそれについて励むという構造を持つ共同体の中で育つということ。「成長させて下さるのは神である」(第一コリント3:6)が、子供を抱きしめて、手をその上において祝福しつつ育てる者がおらねばならぬ。イエスが十字架を通して人間の苦しみに触れていることも、実は「手をその上において祝福された」(10:16)幼児への関わりのように、わたしたちへの関わりなのかもしれぬ。
(1975年6月1日 岩国教会 岩井健作)


