1974年12月1日 待降節(アドヴェント)
岩国教会週報「先週の説教より」コリント第一7:29-35
(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)
余念なく主に奉仕させたいからである。(第一コリント7:35)
カドミ汚染米公害に取り組んでいる岸本二郎氏が、公害を扱った本には2種類あると言っている。一つは、学問的知識の集大成の本、もう一つは、被害者との対話の中から生まれた本。そして現場では前者は役に立たず、後者は新鮮さを失わないと言っている。これは「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8:1)とパウロがコリント教会の知識主義的信仰者を戒めている言葉と重なる。「余念なく」(7:35)とは、頭だけの知識、体系的理解といったものから物事に接近していく危うさを絶えず振り切っていくことを言っている。たとえば、「結婚とはこうあるべき、それに比べて俺たちは…」などと考えようものなら、当事者二人の関係は冷えてしまうであろう。信仰ということも然り。引用した聖書箇所は、講談社訳は「あなたがたが、妨げられないでしっかり神のもとに留まることを願って」(7:35、講談社訳)としている。パウロは、このことを切迫した終末信仰の中で説いている。この世の終わりは近く、この世の諸々は過ぎ去っていくという初代教会の信仰である(コリント第一7章29〜32節参照)。しかし、自分の理解や自分の力の中に事柄を取り込もうとする、一種の完全主義が破れるところからこそ、信仰は始まる。「時は縮まっている」(7:29)というパウロの指摘は、巡り巡る私たちの思いを、「御名をあがめさせ給え」という祈りへと呼び返しはしないだろうか。
(1974年11月24日 岩国教会 岩井健作)


