聖霊の働きと教会《使徒 2:1-4》(1987 説教要旨・週報)

1987年6月14日、聖霊降臨節第2主日
(説教要旨は翌週の週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)

使徒行伝 2:1-4、説教題「聖霊の働きと教会」岩井健作

 ”みんなの者が集まっていると…‥一同は聖霊に満たされた。”(使徒行伝 2:1-4、口語訳)


 教会では礼拝のたび毎に「父・み子・みたまの」と頌栄を歌う。

 三位一体の教理はテルトゥリアーヌス(紀元3世紀最大の神学的著作家)によって言われたという。

 しかし、さらに古く新約聖書の中にも「父・子・聖霊」の併記がある(マタイ 28:16、Ⅱコリント 13:13)。

 ”主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。”(コリント人への第二の手紙 13:13、口語訳)

 神の超越性・創造主たること等を「父」で示し、歴史的存在なるイエスを「子」で表し、現在的臨在性や内在性すなわち個々人に働く神を「聖霊」と表現する告白の仕方、神理解は、キリスト教信仰理解の歴史の中で深い意味を持っている。

 各人はその教理を鵜呑みにすることなく、その意味を探ることが大事であろう。

 特に「聖霊」について、新約聖書の教えるところは多様である。

 代表的テキストを挙げると、Ⅱコリントの13章3節。

 信仰の告白をせしめる神の働きとして捉えている。

 ”なぜなら、あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を求めているからである。キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。”(コリント人への第二の手紙 13:3、口語訳)

 ヨハネ14章26節。

 歴史のイエスの振る舞いと言葉を想い起こさせる助け主。

 ”しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。”(ヨハネによる福音書 14:26、口語訳)

 ロマ8章26節。

 切なる呻きをもって我らを執りなし給う神の働き。 

 ”御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。”(ローマ人への手紙 8:26、口語訳)

 Ⅱコリント3章17節。

 自由の根源。

 ”主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。”(コリント人への第二の手紙 3:17、口語訳)


 さて、使徒行伝1〜2章では、「聖霊」は教会の宣教の働きと関係づけられている。

 初代教会には”異言”(宗教的恍惚状態で発せられる意味不明確な言葉)を主流とした活動があった。

 地中海世界の宗教の一般的傾向でもあったが、パウロはこれを批判した(Ⅰコリント14章)。

 使徒行伝の著者ルカも、このパウロの流れを汲んで、異言活動を福音宣教の中心的働きとは考えなかった。

 著者は、2章で「聖霊降臨物語」伝承を用いつつ、聖霊は異言と結びつくのではなく、他者にわかる言葉による宣教と結びつくことを強調している。

 そこで注目したいのは《一緒にいる》《聖霊降臨》《言葉の宣教》の一連のつながりである。

 《一緒に集まる》という事柄の中には、教会の老若男女、思想、生活経験、性格の混在が示唆されている。

 異なる者と一緒にいることは大変なことではあるが、それを受容することは《人間のありようの根源性》に目覚めることでもある。

 自分の都合のよい人間関係だけに逃げて、一緒にいることに耐えないことは、神のみこころではない。

 聖霊は「何故教会に?」とは意味深いことである。

 我々もそこを大切にしたい。


 浅見定雄(東北学院大学)教授はその著『統一協会=原理運動・その見極めかたと対策』(日本基督教団出版局 1987)の中で、原理から青年を取り戻しても、両親と一緒にいるのは嫌だ、という青年には打つ手がない、と語っている。

 一緒にいることの、日常的そして根源的意味を重んじる教会でありたい。

(1987年6月14日 説教要旨 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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