1974年11月24日 岩国教会週報
「先週(永眠者記念礼拝)の説教より」
詩篇31:15、ロマ8:26-28
(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)
わたしの時はあなたのみ手にあります(詩篇31篇15節)
11月は、落葉樹が美しく紅葉し、やがて葉を散らす一方で、千石原あたりの錦川では竹林の緑がいっそう鮮やかになっていく、いわば季節の区切りの時である。去りにし人を偲び、限りある己の時を省みるのにふさわしい季節である。教会暦においても、11月は一年の終わりを迎える時とされている。
今は亡きスイスの神学者バルトは、本日の聖書箇所である詩篇31篇15節の説教において、この同じ聖書箇所での説教を最後に突然召された友人の思い出から書き始め「私たちはこの生の只中で死に囲まれている」と語った。私たちも、昨年のこの永眠者記念礼拝の日から今日までに、四人の方々の葬儀を、この岩国教会で執り行った。そうした死を前にして、私たちは自らの生の極み、すなわち「わたしの時」(詩篇31:15)について、自ら判断することのできない地点に立たされている。「わたしの時」が自らの手のうちにはなく、ただ神に属すということから、3つのことを憶えたい。第一は、死を熟慮すること(詩篇90:12)。しかし、これは死への達観ではない。十字架の死に極まった「イエスの死」への熟慮こそが私たちの目の向け所である。第二は「わたしの時」を憶えること。多様な試練に直面し、召されている信頼を喪失して生きるような受け身の生活の影との戦いは誰にでもある。「わが時は汝の御手に」(3:15)という自覚が、私たちの戦いにおいて力になる。第三に「汝の御手にあるわたしの時」を憶えること。良かれと思い一生懸命やったことが「欠け」を持つといったことが人生には多々ある。私たちが主体的に生きる、使命に生きるという場合、その半面である私たちの「欠け」た部分の痛みの償いを誰かが負っているに違いない。その隣人の中に、私たちは神を見ないであろうか。「わたしたちのためにとりなして下さる」(ロマ8:26)方の御手の内にあることなしに、「わたしの時」はない。
(1974年11月17日 永眠者記念礼拝 岩井健作)


