1971年6月20日 岩国教会週報
「先週説教より」黙示録13:11-18
(岩国教会牧師6年目、健作さん37歳)
「昭和17年。教団教師錬成会開かる。朝5時起床。国旗掲揚。宮城遥拝。朝の挨拶。早天祈祷。7時20分より宣戦の大詔謹写(たいしょうきんしゃ。天皇の公式文書を毛筆にて書き写す)。午前中、講義2題。午後2題。大東亜共栄園新秩序論、戦時下布教指針……。夜静坐。明治天皇御製謹唱(明治天皇の和歌を朗詠)……。(『教団史』より)
ちょうど同じ年、少数の青年たちに黙示録の講義(12-13章)をしていた矢内原忠雄はこう書いている。「その日、私は日本における信仰とそれに対する教会の屈服を論じ、朝鮮における信仰の迫害と神社参拝強要の事実を指摘し、大東亜共栄圏における異民族への宗教政策の問題を批判したのである」(矢内原)。
日本の教会における内的に自由な礼拝の欠如が、外的には、信教の自由を奪う「神社参拝強制加担」を産み出したとみられないだろうか。黙示録にみられるように権力による内的な自由の破壊は想像を絶する。しかし、それを持ち堪えて礼拝へと招かれているという信仰が黙示録には生きている。自由な、心からなる、独立の意志による礼拝(これは単に現在の形式を守ることだけを意味しない)をどれだけ生活の拠点にし得るか。そこからの退廃をどれだけとどめ得るかを抜きにして基本的人権の内実は保証されないと思う。「思慮ある者は獣の数字を解くがよい」(13:15)と黙示録がいうように、今日、我々の前にある獣の意味と正体を見据えたところで、礼拝を守りたい。
(1971年6月13日 岩国教会 岩井健作)


