我が内なる体制 − 子供の叫びを黙殺すまい(1971 岩国)

1971年『月刊キリスト』7月号 P.20〜25
『月刊キリスト』日本基督教協議会文書事業部(1959-1972)

(健作さん37歳、岩国教会牧師)
一部読めない部分を○にしています。


1.アンデルセンに「皇帝の新しい着物」という童話がある。

 新しい着物の好きな皇帝があった。その町に、ふたりのペテン師がやって来て、すばらしい織物を織る名人だと名のる。その色合いや柄がなんともいえぬほど美しいばかりでなく、それには特別な性質があって、自分の役目に向かない役人や、大バカ者には、それで作った着物が見えないというのである。

「さて、もうどのくらい織れただろうか。わしもひとつ見たいものじゃ」と、着物をつくることを命じた皇帝は気が落ちつかなかった。しかし、もしや自分に見えないことでもあったらたいへんだと思って、年とった正直者の大臣をつかわすのである。ペテン師の織り機の前で、大臣は「はてな、これはどうもおかしいぞ」と一度は胸のうちで考える。だが自らの不明を恥じて、見えない着物の美しさをたたえてしまう。

 あとは、周知のごとく、一つの体制における観念の支配とか伝染とはかくも見事なものなのかを示す標本のように「はだかの王様」の出現となる。そしてそれが、いみじくも「なあんだ、なんにも着てやしない」というひとりの小さな子供の叫びによって破られてしまう。さらに「ねえ、むじゃきなこの子の言うことを聞いてくださいよ」という父親の声が、裸の真実に目を向ける輪を拡げていく。皇帝もお困りになる。だが「いまさら、行列をやめるわけにはいかない」と偉そうに胸をはられ、侍従たちは、ありもしないすそを、もっともらしくささげて行列を進めていく、というお話である。

 読む者が、この話に、なにを連想するかを考えると楽しいかぎりである。また、作中のどの人物に自分の身を置くかによって、この痛烈な風刺の風向きも変わってくる。アンデルセンの生きた状況についてはあまり知らないが、ほとんど時代を同じくするキルケゴールのヘーゲル批判と考え合わせてみれば、体系化されたキリスト教を支えとした当時の体制的思考・観念化された思考への批判を汲みとってもまちがいではないだろう。彼の時代も、批判という概念に縁のない子供の叫びが観念の先行きを破っていった時代状況なのかもしれない。

 一つの時代がこのような「子供の叫び」を聞きわけるか否かは重大なことである。わたしが編集者から与えられたテーマは「わが内なる体制」ということであり、具体的な闘いの中での意識の所在と課題についてなのだが、わたしはいわゆる「自己告発の教義」に従って、体制のうちに生き続ける自己を自虐的に語ることはすまいと思っている。それも一つの観念化された思考の所産ではないだろうか。内なる体制とは、体制に組みして生きている自分の生活の位置と自分の意識との距離の克服の問題ではないと思う。それよりも、権力による事実の隠蔽をどこまで見破っていくことができるかという感覚の問題であり、そのためには観念の先行を自分のうちでどれほど克服しうるかという問題だと思っている。その意味で、冒頭の童話は示唆に富む。「子供の叫び」を聞きわけ、拡げる行動そのものが大事だと思う。子供はおとなのように高い位置でものを見ないから、体系化したり分析したりするよりも、感覚的生理的に物事に反応する。権力によって隠蔽されている体制の虚偽への反応も、それだけに反射的な鋭さを持っている。内なる体制とは、そのような子供の反応を洞察することなく、子供の叫びや指摘を黙殺するおとなのずるさであり、そのずるさに加担していく生き方なのである。

2.子供の叫びといえば、最近聞いた頼もしい話を紹介せずにはいられない。

 山口県の中都市H市に住む牧師Yさんの長男H君のことである。彼は今春中学生になったのだが、入学以前、六年生のとき、中学の校則・服装等の諸規則のプリントを渡された。その中には、男子は丸刈り、長髪は不可(身体的理由で長髪を希望するものは入学式当日届け出よ)としるしてあった。彼の小学校では、かつてある女教師が受け持ちの一年生のある女児の髪が長過ぎる、「先生はきらいだ」と言って、勝手に自分でその子の髪を切ったという事件があったという。そんなこともきっかけになって、家庭では、中学生丸刈りの問題はかなり前から話し合われていた。彼は、髪の長い短いは学校が決めたり押しつけるべきことではないという感覚を持っていた。プリントを手にして考えたあげく、刈らないことに決めたという。Yさんも、この子供の叫びを聞き届け、うまくいけば、市内の中学生の長髪が可能になるかもしれない、へたをすると三年間いじめられるぞ、それでよいか、と念を押した上で、入学式当日「長髪を希望します」という届け出をしたという。他方Yさんは日ごろから親しい教組の人たちを通じて、教師がこの問題をまじめに扱うよう申し入れた。H君は相当の覚悟と緊張で第一日めをスタートしたが、学校側もついぞ本人の意志まかせで、一般的にも、個人的にも触れずじまいで今日に至っているという。家庭訪問の日、担任は「本人が刈ろうと思えば刈ったらよいし、切りたくなければ切らなくてもよい」と言ったきりであったという。彼は中学生になった決意を書く作文で「成績は百番ぐらいでのんびりやりたい」という文章を綴ったというが、彼のもっている、小学生と高校生が伸ばしている髪を中学生のときだけ切るのはいやだという素朴な欲求と、規則で決めるべきことではないという感覚は、成績が上位であるかどうかよりずっとたいせつである。上級生のリンチを恐れて表通りを通ることにしている彼に、友人や上級生がよく「なぜ頭をのばしているのか」と質問すると、彼は「君はなぜ刈っているのか」と聞くそうである。すると「おお、それいのう」と彼への共感を示しはじめているという。

 これは、三里塚砦の子供たちの行動ほどに勇ましい話ではないが、Yさんの家庭の姿勢が、日ごろから内なる体制との戦いにおいて、地味だが、ごまかしのない歩みをしていることの表われだと思う。体制の虚偽を生理的に見破っていく子供の感覚を黙殺するとき、「内なる体制」は強固な形相でわれわれのうちに現われるのではないだろうか。

3.米軍岩国基地のGI運動は、「子供の叫び」とそれを圧殺する者との闘いとしてとらえることができる。

 18才から23才ぐらいまでの兵士たちの運動は、「おとな」の、それ故に、なんらかの意味で観念が先行する運動を破って起こってきた。彼らが行動を起こすまでは基地はあらゆる意味で施設であった。現に小学校の教科書では、基地という言葉は注意深くはずされていて、米軍の施設となっている。岩国では、岩国空港という言葉を市当局がわざわざ選んで用い(たとえば観光案内)、市民もその意識に飼いならされている。春ともなれば近郊の人々を含めて、錦帯橋河畔にはお花見に7万人が集まり、5月16日の米国三軍統合記念日になれば、緑の芝生に行儀よく並んだカッコいいジェット機、F4ファントム、A-6イントルーダー、4-Aスカイホークを見物に5万人の人がぞろぞろと出かける。この施設を、保守派の人たちは、国防論から位置づけ、あるいは基地交付金や防衛庁からの基地対策費を少しでも多く中央から引き出してくる材料として位置づけている。革新派の人たちは、この施設を、アメリカ帝国主義と日本軍国主義(基地には海上自衛隊航空分遣隊があり、最新鋭のPS—全天候対潜飛行艇が在駐している)の象徴としてとらえ、また市民生活をさまざまに侵害する危険な存在としてとらえる。確かにベトナム撤兵で公称6500の兵力になった(少ないときは1700ぐらい)基地の市民生活への実害は日に日に増大しつつある。現に、5月にはいってジェッ卜機が近くの海に落ちたが、これがコンビナート工場群の上だったらその災害の大きさは計りしれないという。また、キリスト者のわれわれは「戦責告白」で指摘されたように、日本帝国主義のアジアヘの侵略に加担してしまったという罪責からこの施設としての基地をとらえた。基地の存在を許すことはベトナム戦争の加害者になることだ、ふたたび誤ちをくり返すな、というのがスローガンだった。これら右から左までさまざまなとらえ方は、それぞれが基地の存在の問題性をとらえていて、批判なり評価の対象になりうる。しかし、そこにははじめから基地を位置づける思考や観念が先行しているという意味で共通なものがあると思う。どんなに倫理的視点からとらえたとしても、基地そのものを対象化してとらえているという点で、やはり基地を施設としてしまっているのではないだろうか。わたしたちの運動に即していえば、確かに、基地の中にいる兵士たちに呼びかけてきたが、その呼びかけが、わたしたちの倫理的要請(戦争の加害者となるな)の結論だけを語るものであるならば、基地をある一つの観念でとらえてしまっている。

 GIたちが起こした行動は、このような先行するなんらかの観念から起こされたものではなかった。その意味で、まったく新しいものとしてとらえねばならない。彼らは、軍隊や基地を対象的に把握して、その上で変革の行動に出ているわけではない。ASU(兵士組合)による権利要求、黒人兵士による差別撤廃闘争、営倉での暴動、脱走、不許可離隊、サボタージュ等々の行動の動機は、思想的政治的なものというより、むしろもっと生理的な次元のものであったと思う。確かに、初期の行動をリードしたASUのリーダーたちは、戦争遂行の仕組みとしての軍隊の権力構造にきわめて自覚的であった。彼らが作っていたアングラ反戦新聞”センパー・ファイ”は、兵役相談を専門的にしている一米人牧師の話によれば、思想においても文体においても、他誌(この種新聞は数限りなく出ている)にくらべてきわめてすぐれているとのことであった。けれども、その後それらの人たちが強制移転や除隊させられてしまったあと、何代かにわたってバトンタッチされている新聞は、政治的意見や思想的見解によって続いているというより、軍隊に対する原初的な反発によってささえられているような気がする。

 彼らの用語法は、わたしなどが大学で習った英語ではとても手に負えない。”Japanese pigs” なんていうのはわかるとしても、”Fuck Nixon! We are screwed by the Brass.”などとなると、研究社の新英和大辞典を引いてもどうにもならない。「ニクソンをやっちまえ!」「くそニクソン」とか「ブタども(将校のこと)に犯された!」といった表現なのであろうか。わざと用いられる下品なことばには、彼らの怒りやいらだちの感情がこめられている。否定的に考えれば、こんな仕方で感情をぶち当てていることによって、彼らをしいたげている権力を正確にとらえる思考から、いつまでも逃げ出しているともいえるし、戦術的にもうまくないという見方もできないことはない。しかし肯定的にとらえれば、そこには「行儀よくせよ」と命じるきれいごとの社会・制度・文化・思想に対して、「オレたちゃ、ヨイ子じゃねぇよ」と自分たちの自由を○○している叫びを聞きとることができる。

 多くのGIはベトナムで大麻を吸ったことがあるという。ペトナムでは容易に手にはいるし、また意味のない殺人をする戦争にこき使われるやりきれなさがそうさせるのであろう。GIたちの軍隊への反抗の動機が、生理的に耐えられないというところから出ていることは重要なことだと思う。そこには、国家や軍隊という組織の権力が引き起こしている悪い事態に対する直截な反射がある。そしてそれは「子供の叫び」に類したものではないだろうか。彼らは国家や軍隊をなにかの観念を介在させて対象化してとらえてはいない。もちろん、彼らは軍隊の内におり、わたしたちがその外にいるという違いはある。だが、わたしたちがその「内」をみずからの事としない限り、彼らとのつながりは起こらない。「子供の叫び」に等しい彼らの運動は、これを圧殺しようとする力と対決しながらも、アメリカの軍隊を弱い軍隊へと方向づけてゆくであろう。その方向づけが、わたしたちにとって不可欠に感じられるとき、わたしたちが彼らの闘いをみずからの内にまで切り結ぶことができるのだと思う。若くて、柔軟な行動力をもち、みずからをウッドストック・ネイションの子供だと名のる反戦活動家、ヤン・イークスのことばは示唆に富む。「あなたがたはあなたがた自身の解放のために運動する時にのみ、そして、アメリカ軍の崩壊が日本の解放のために不可欠だと考える時にのみ、あなた方は(GI運動に)連帯することができる」

 GI運動へのかかわりを、単なる支援活動として、自分の射程距離に位置づけてはならない。みずからのかかわる反体制運動(靖国、○○、入管、沖縄、被爆者、公害等々)が規制された観念であることをやめて、自分の感情とまでなっているのかどうかを再検討させるのが、わたしにとってのGI運動へのかかわりなのである。

 しばらく前、基地をぬけ出してヒッチハイクで京都や東京に行き、また岩国にもどってきた兵士と会った。泊まる所がなきゃあ来いよ、と言って別れたら夜になってやって来た。話を聞いてみると、彼は軍隊がどうにもこうにもいやになってしまったので、なんとかよい方法で(不名誉除隊などではなく)除隊になりたいと思いC•O(良心的兵役拒否者)除隊を思いついた。だが、軍の中にいては、ものを考えることは不可能に近いし、とにかく外へ出たらなんとなるのではないかと思って飛び出したという。自分がC•O除隊に成功したら(岩国ではまだ一例もないという)他の者にも道を拓くことができるから決心したのだ、と歯の浮くような話をする。彼はC•O申請に必要な自分の決心をしるしたペーパーを作ってはいたが、C•Oを申請する核心はなにかを問うていくと、自分でもよくわからないと言っていた。どのようにサポート・レターを書いてよいかわからないので、少年のころの生活環境など聞いて時を過ごした。彼の父親は技師だといっていたが、飲み助で、彼が小さいときは片手にバイブル、片手に酒ビンで聖句の暗誦をさせたという。飲むと暴力を家族にふるい、ついに彼が高校のとき母親と離婚するに至った。彼は高校を中退し、プラスチックエ場に勤め、18才で志願兵として海兵隊にはいった。軍隊の訓練は、狂暴な父親の前でおののいた日々を彼に思い起こさせ、彼の心の底流を形づくることになる。彼が岩国に来てベトナム戦争の残虐さをいろいろな情報から得たときには、もうがまんできないところまできてしまう。彼の申請書の一節にはこんなことが書いてある。「私の仕事はジェット機に燃料をつぐことです。この仕事は、幾百万の罪なき人々を殺す爆弾をおとすことになるのです。私はもうこの行為に参加することはできません。なぜなら、それは殺人の企てを助けることになるからです。」ことばにするとひどく一般的になってしまう感じがするが、彼にとっては、自分はどうも軍隊での優等生にはなれない、軍隊とは縁のない人間なんだ、というぎりぎりの表現なのである。彼には爆撃のもとに身をさらしている者たちの気持ちがわかる。それは彼の父親が酒に狂って斧をふりあげて追ってくる前に身をさらした少年の日の経験が開かれた形でつながり合っているからである。狂暴な権力の前に身をさらしている者同志が互いに助け合い、身を寄せ合ってゆかねばならないという感覚が彼の心の底にはあった。いたって明るく、彼の間尺には合いそうもないわたしたちのスケジュールに合わせて、その日早起きもしてくれたいい青年である。幾人かの人に加えて彼のC•O申請のサポートレターを書いた。彼は帰隊して、しばらく営倉にいると聞いたが、若くて弱い彼が、まだわたしも味わったことのない試みに耐えているのかどうか気がかりでならない。彼が子供のような素朴な気持ちをもっていなかったならば、適当に軍隊の中を泳いで生きていたにちがいない。GI運動へのかかわりが、単なる支援ではなく、権力の前に身をさらす者の感情をわが事とするものであることを彼は知らせてくれた。そしてそのような連帯のあるところでは、少々のことばの不自由ささえもが乗り越えられていく。

 ことばの不自由さを乗り越えて、人間の連帯があるという話は、すでに鶴見俊輔氏が岩国べ平連の範子氏を評価している話として有名である。鶴見さんは、範子さんを、カタコト英語論を展開する小田実氏以上に評価する。東大も京大も出ていないで、ほとんど英語が話せない彼が、ここ一年半、ほとんどひとりでGI運動を組織する原動力であったことは、まさに、兵士と彼との間を動物的感覚で結んだ「種」としての人類の感覚を相互が身につけていたことにほかならない、という。言語は精密を帰すれば帰するほど、人を分断していくという。ここでは、「子供」を通り越して、種としての動物への回帰が、内なる体制の克服であることが指摘されていた。

5.5月5日、岩国では子供の遊びにちなんで凧あげがあったという(アサヒグラフ 5.28号)。

 わたしはあいにく居合わせなかったのだが、この日一日くらい、ベトナムの子供のことを思って、ジェット機を飛ばさせまいとして、京都や広島や福岡から集まってきた人たちが、基地滑走路の終わりに面する道路から凧を揚げた。身軽なファントムには影響はなかったらしいが、輸送機か哨戒機か知らないが、重たいのは飛べないので、基地当局から文句が出たらしい。百人もの警官が取り締まり(実際には有効な法がない)に出たという。友人のところの子供のS君などは、私服のおじさんに凧を持っていてもらって、いっしょうけんめいに風のない土手を走ったという、あとで聞いてユーモラスな話だなと思った。

 ジェット機に対して凧を揚げることは、まさに児戯に等しい。しかし、これを主催したべ平連の人たちは、家主から借家を出て行ってほしいと言われているという。今にはじまったことではない。もうこの1年に3度同じ経験を味わったという。イエスの言葉「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」が身に沁みる。「幼子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」と言って、子供の声に耳をかたむけたとき、その叫びをさえ奪うのが体制というものだと思う。これは山紫水明の古い城下町の因循性によるものだけではないようだ。

 岩国出身の有名な評論家は、地方都市のインテリがいかに『文芸春秋』と『朝日ジャーナル』を両極とする考え方に規格化されているか、それにあらがうのに勇気が必要だ、と言っている。わたしは、この町のジャーナル族たらんとする意図をもってはいない。GI運動が示しているものを、遅足ではあるが、この町に立てられてすでに数十年になる教会において、深い問いとして受けとめていきたい。GI運動が提起しているものを、日本の近代や、そこに形成されてきたキリスト教固有の場で問いかえしていく作業が、これからの課題だと思っている。そしてその課題を放棄して、GIたちとの連帯はない。

(岩井健作 日本キリスト教団岩国教会牧師)

▶️ 岩国教会 山口県岩国市(2006 教会と聖書 ㉖)

▶️ ほびっと ぼくになにができるか?(2009 望楼 ⑨)