1971年5月30日 聖霊降臨日(ペンテコステ)
岩国教会週報「先週説教より」ヤコブ5:7-11
《翌週週報欠落》
(岩国教会牧師6年目、健作さん37歳)
あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また神の結末を見ている。(ヤコブ5:11、後半岩井私訳)
忍耐と我慢とを区別して考えるなら、忍耐は現在というものを放棄しないで生き続ける姿勢であるし、我慢は、いつかという未来(現在を放棄して本当は未来というものはないが)、ないしは観念的世界に逃げ込んでしまう姿勢と言えないだろうか。
ヨブ記を初めから終わりまで読んでみると、この書物のテーマは、ヨブの友人の教条的な「苦難の解釈」に対して、その観念的な解釈の中に逃げ込まないで、苦難の不条理をとことんまで生き、問うたヨブの生き様が示されているところにある。ヨブは「かすめ奪う者の天幕は栄え、神を怒らす者は安らかである」現実に「からだがしきりに震えわななく」。そして深刻な虚無に答えを求めて苦しみ悶える。これに対して友人たちは「神のわざにしたがってその身に報い…」と、ヨブの隠れた罪を責める。教条的な弾劾である。友人が語っている限りの言葉は教条的には正しい。「真の福音」のように正しい。ヨブはこのような友人の批難に対して耐えたのである。ヨブの忍耐とはこのことであると思う。「わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼(神)の前に守り抜こう」(ヨブ13:15)と言って彼は究極的な神の義に対して生きた。彼は神の義を観念的に信じたのではなく、現実の中で神の義に生きたのである。そしてその苦悩の現実の中にこそ「神の結末(目的・終局)」があることを悟ったのである。
私たちは、今の自分の関わっている現実に対して、自己慰安を与えるような割り切り方をする論理に逃げ込むことを戒めよう。ヨブの忍耐を見据えて、神の結末に生きる者となろう。
(1971年5月23日 岩国教会 岩井健作)


