宗教部 笠原芳光(1984 引用-1)

「同志社大学時代」笠原芳光、『敬虔なるリベラリストー岩井文男の思想と生涯』
新島学園女子短期大学 新島文化研究所編 新教出版社 1984 所収

(サイト記)本文の「宗教部」からの一部引用です。画像は、同志社大学宗教部スタッフ。右端が岩井文男部長(後、教授、学生部長兼務)。左隣が本稿執筆者・笠原芳光氏、撮影時は同志社大学宗教部主事、執筆時は京都精華大学学長。

1 宗教部

 岩井文男の生涯のなかで同志社大学に勤めた十年間はかなり大きな意味を持っている。

 その意味とはまず、それまでの働きの場が教会、あるいは伝道地としての農村であったのに対して、それとは対照的に大都市の、キリスト教主義とはいえ大規模な総合大学であったことである。

 次に、その時代がこの国にとって戦後復興から安保問題をへて高度経済成長へとむかう大きな転換期であったことである。そして岩井の年齢が50歳から59歳までという、壮年期から円熟期にかけての世代であったことである。

 牧師にありがちな偏狭さはなく、社会的関心は人一倍強いほうではあったが、関西では質量ともに最大といわれる私学に勤務することによって、交流する人も多くなり、仕事も忙しくなって、活動の範囲も内容も多彩になった。それもキリスト者でない人物、キリスト教以外の問題とのかかわりが増加した。

 そのなかで岩井は持前の賢明で率直な人柄や、活動的な行政能力によって、同僚や学生に感銘を与えた。また、この時代にそれまではなかった学術研究の業績を残したのも、特筆すべき事柄といわねばならぬ。

 ところで岩井が同志社大学に勤務するようになった始めは1952(昭和27)年9月である。それまでは岐阜県の日本基督教団坂祝教会牧師として農村伝道にたずさわっており、その道ではすぐれた人材であった。

 その岩井が、いわば畑違いともいうべき場所に就任するようになったきっかけは、かつて同志社大学の法学部政治学科と文学部神学科の双方を卒業した経歴のこともあるが、なによりもこの時の神学部長が教会関係で親交のあった大下角一であったことによる。さらに大学長も岩井の法学部在学時の先輩である田畑忍であり、その他、神学部の教員はもとより、文学部社会学科教授の嶋田啓一郎、法学部政治学科教授の岡本清一など、旧知の人物も多くいた。しかし直接には大下が、農村伝道で経済的にも労苦している岩井に新しい働きの場を与えようとしたことが大きい。

 岩井は同志社大学に、まず宗教部の主事として就任した。宗教部は学生部などと並ぶ大学の機構で、学生に対する課外のキリスト教教育を行い、また学生の自治的なキリスト教活動を指導、援助する部門である。岩井が宗教部にきた当時のことを、現在も主事である河崎洋子はつぎのように述懐している。

「大下神学部長から呼ばれて、こんど岩井文男という人にきてもらいたいのだが、といわれて、すぐに思いだしたことがあります。日本基督教団の日曜学校教育関係の会合で、きわめて率直に、しかもユニークな発言をする人がいて、そのうえ村夫子のような風采だったので印象に残っていました。それで即座に、あの先生ならよいといったのです」

 岩井は、それまで主事であったが米国留学のために辞任した飯清の後任として宗教部に入った。その頃は岐阜での伝道を続けており、週日は京都市の北の岩倉にあり、一般学生の寮である大成寮、続いて大学に近い、神学部の寮である此春寮の一室に居住し、週末に岐阜に帰るという、いわゆる単身赴任の生活であった。……

(上掲書 p.209-211)

神学部と人文科学研究所 笠原芳光(1984 引用-2)