神学部と人文科学研究所 笠原芳光(1984 引用-2 『敬虔なるリベラリスト ー 岩井文男の思想と生涯』 )

「同志社大学時代」笠原芳光、『敬虔なるリベラリストー岩井文男の思想と生涯』
新島学園女子短期大学 新島文化研究所編 新教出版社 1984 所収

(サイト記)本文の「同志社大学神学部と人文科学研究所」からの一部引用です。画像は、同志社大学宗教部スタッフ。右端が岩井文男部長(後、教授、学生部長兼務)。左隣が本稿執筆者・笠原芳光氏、撮影時は同志社大学宗教部主事、執筆時は京都精華大学学長。

 前述のように岩井は1956(昭和31)年4月から神学部の専任講師になった。

 神学部の学術雑誌である『基督教研究』に当時は「彙(い)報」や「報告」という欄があり、教員の担当科目などが記されていた。

 それによると1955(昭和30)年度の後期に、岩井はすでに「講師」として学部における実践神学演習という科目を福原春代とともに担当している。

 宗教部の主事が神学部講師を兼任するという形であったのであろう。

 内容は農村伝道に関する講義であった。


 そして専任講師になってからは、その学部の講義のほかに大学院における基督教教化学特講および実習を大下角一とともに担当した。

 内容は説教に関する講義と実習であった。

 岩井の次男•健作は当時、大学院の学生で父親の授業を受けた。

 息子としては長年、牧師をしてきた父親が大学の講義をするということで、聴講しながら内心、うまくやってくれればよいがと念じていたという。


 岩井は1957(昭和32)年4月に教授に昇進したが、学部での講義は担当しなくなった。

 宗教部長から引続いて学生部長に就任する職務多忙のためであろう。

 ところで教授になったのは、それにふさわしい業績がつくられたからである。

 それは「丹波地方に於ける基督教の受容」という論文である。


 岩井は1956(昭和31)年7月に岐阜と京都の二重生活をやめて、京都府船井郡園部町にあった日本基督教団 丹波教会の牧師に就任し、教会に隣接する牧師館に住み、そこから同志社大学に通勤した。

 丹波教会における岩井については項を改めて記すが、居住地であり、伝道地である丹波地方について、岩井が大きな関心を持ったのは当然である。

 そこは農村地帯であり、昭和の初期に数年、京都府綴喜(つづき)郡草内(くさじ)村と岐阜県加茂郡賀茂野村とで、また戦後に数年、岐阜県加茂郡 坂祝(さかほぎ)村で農村伝道をした経験をもつ岩井にとっては一層の興味をそそられたに違いない。


 いっぽう同志社大学のキリスト教社会問題研究会では岩井の丹波研究を援助することになった。

 この研究会は1956(昭和31)年の2月に当時、経済学部教授の住谷悦治を代表として発足し、明治以降、キリスト教が社会思想や社会運動に与えた影響について、資料の収集、整理、研究を目的としていた。

 この研究会は1959(昭和34)年4月から人文科学研究所に所属し、第二研究の部門を構成することになるが、当初は独立した組織であり、海外の財団や研究機関からの資金援助を受けていた。

(上掲書 P.215-216)


住谷悦治(経済学部教授)

 この岩井の論文は前述のように、のちに『日本におけるキリスト教と社会問題』(住谷悦治編、みすず書房 1963)に収録された。

 そして、その書評が『図書新聞』の1963(昭和38)年10月12日号に、当時、東京大学経済学部教授であった隅谷三喜男によって執筆された。

 隅谷はこの本のなかで、もっとも優秀な論文は岩井のものであるという趣旨を、つぎのようにのべている。

「第一に率直にいって、玉石混淆の感をまぬかれない。田中良一『熊本バンドと同志社』、嶋田啓一郎『中島重の社会哲学と社会的基督教』や、岩井文男『丹波地方に於ける基督教の受容』などは、同志社と深いつながりをもった問題を、たんねんに追求された、その意味で同志社の『キリスト教社会問題研究会』の成果に、内容的にも、水準としてもふさわしい好論文であり、とくに岩井論文は日本の初期キリスト教史論として、きわめてすぐれた力作である」

(上掲書 P.221)



宗教部 笠原芳光
(1984 引用-1 『敬虔なるリベラリスト ー 岩井文男の思想と生涯』)

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