安中教会転会にあたって ”私の杯は溢れます”(2016 岩井溢子)

2016年5月29日発行 「安中教会便り」第117号所収

 この度、敬愛する義母・岩井牧江の信仰の故郷である安中教会の一員に加えて頂けますことを神様の不思議なお導きと感謝しております。

 私は1935年に札幌市で生まれました。両親の愛唱聖句”我杯は溢るるなり”(詩編23編)から溢(いつ)子と命名され、このみ言葉に支えられて今日まで如何なる時も恵みに、感謝に、喜びに溢れる歩みでございました。

 幼児期は両親と共に札幌独立キリスト教会(内村鑑三らによって創立)に、小学生の時は友人と札幌北一条教会の日曜学校に、戦後父の仕事の関係で九州の宮崎に一家が移住してからは開拓伝道の宮崎清水町教会に出席し、中学3年生の時に受洗致しました。

 恵泉女学園短大に進学のため上京し、渋谷の美竹教会へ、卒業後は岐阜の農村の蘇原中学校に就職、そこの伝道所で神学生だった夫・岩井健作と出会いました。

 婚約中の2年間を宮崎教会の附属幼稚園で働かせて頂きました(日本の教会は附属幼稚園を運営しているところが多いから経験しておいては如何かとの先輩のアドバイスにより)。

 1958年23歳の夏、広島流川教会の伝道師に赴任した夫と結婚し二人三脚の歩みを始めました。まだ原爆の傷跡が生々しい教会で、原爆についての認識の甘さを多くの悲しみを負った信徒の方から思い知らされました。

 2年後に牧師として招聘された呉山手教会では素晴らしい信仰の先輩方と出会い、わずか5年間でしたが、若かった私たちは多くを学び、育てて頂きました。貧しい生活の中にも希望に燃えていました。

 岩国教会時代はちょうどベトナム戦争の最中でした。教会・幼稚園・基地の兵士の相談相手等々で朝から晩まで緊張の連続の日々で、私は入院せざるを得ない程に疲れましたが、忘れ難い経験を致しました。

 24年間の生活を許された神戸教会はプロテスタントでは関西で最古の教会でした。1995年1月17日の阪神淡路大震災の衝撃的な出来事は想定外でした。いち早く当時の新島学園高校の大前幸生校長が支援金100万円を携えて見舞って下さったことは感謝と共に忘れることは出来ません。神戸での役割を終えて隠退を考えた時、鎌倉の母が亡くなった後の空き家に住めることになり2002年7月に鎌倉に転居致しました。

 首都圏に住むことになりましたので、長い間関わっていました日本キリスト教婦人矯風会の理事のお役目が与えられ、様々の活動を担わせて頂きました。当時から安中教会の久保庭様、前田様のお働きを尊敬しておりました。

 その他、以前から関心を持っていました温熱療法「イトオテルミー」の療術師の資格を70歳でとり、「夫は心の癒しを、私は身体の癒しを担当する」などと大それたことを申して、疲れを覚えていらっしゃる方々の身体に熱を入れて差し上げる静かで豊かな日々も与えられました。

「私の生涯が私の遺言です」と言えるような人生の締めくくりの日々を新生会で、そして安中教会の皆様と共に過ごして参りたいと願っております。

(岩井溢子)


転会にあたって 私の信仰の歩み(岩井健作)

葬儀式辞(参考のための本人案)(岩井健作)

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