2007.8.26、川和教会、聖霊降臨節 ⑭
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
詩編121編1節−8節、ローマの信徒への手紙 8章26節−28節
「きみは愛されるために生まれた。きみの生涯は愛でみちている。
きみは愛されるために生まれた。きみの生涯は愛でみちている。
永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ。
きみの存在が、私にはどれだけ大きい喜びでしょう。
きみは愛されるために生まれた。」
(作詞・作曲 イ・ミンソプ)
私がこの詩に出会ったのはTさんご夫妻のお宅にお伺いした時です。
食卓のかたわらの壁に掲げられていました。
釘付けになった様にこの詩に向き合っていた私にTさんは
「”ゆう”が生まれた時、友人が贈ってくれた詩です。韓国のシンガーソングライターが自ら歌っていてCDもあります。”ゆう”の存在を歌っている様で、慰めと勇気を与えてくれる歌です。実は、今晩は”ゆう”の出棺にあたり、この曲をかけて家族で棺を運びたいと思っています」
という御話でした。
ゆうちゃんはTさん夫妻の二番目のお子さん、長女として与えられました。ダウン症児として生まれました。Tさんご夫妻も、幼稚園児だったお兄さんのT君も初めは戸惑った事でしょう。でも、神様から遣わされた家族として大切な大事な時が創られていきました。
ゆうちゃんは、そのお病気を神さまから授かったものとして天使のように、お父さんや、お母さんや、おにいさんの、心の中の愛をたくさんたくさん引き出して成長いたしました。
1歳3か月の頃、これから生きていくために、心臓を丈夫にするために、病院で手術をしなければなりませんでした。よほどのことがなければ手術は成功するとのお医者たちの判断でした。しかし、万が一のケースになりました。
ゆうちゃんを知っている人はみんなが「ゆうちゃん頑張れ」とお祈りをしました。
けれども、神様は、ゆうちゃんに、はい、そこまで、ゆうちゃんは小さかったけれど、みんなの「愛」を引き出すお仕事をよくやったね、と神様の所にお招きになったのです。
そうして、その晩は、Tさんのお宅にご親戚や教会の人たちやご家族の親しいお友達の家族が集まって、お別れの礼拝(前夜式)をする時だったのです。
ゆうちゃんの「短い」生涯は、本当にこの詩にすべてが歌われていました。
私は、それからしばらくして、川和保育園の月一回の礼拝に、4歳と5歳の皆さんに、ゆうちゃんのお話をさせて戴きました。
「皆さんは『愛』ってきいたことがあるでしょう。
(うん、人を大事にすること)。
そう、でも『愛』ははじめから目に見えて、そこに置いてあるもののように『ある』ものではないんだよ。
ゆうちゃんが、お父さんやお母さんや回りのみんなをはらはらさせなから引き出したように、引き出して来るものなんだよ。
明日は、ゆうちゃんとのお別れの礼拝をするの。みんながお葬式といっている礼拝だよ。牧師先生も一生懸命、礼拝をするから、みんなもお祈りしていてね。」
といったら、みんなは「うん」といってくれました。
保育園の園長先生は、このお話しの間中、涙を流し、目を真っ赤にして聞いてくださいました。
今日は詩編121編を読んで戴きました。神様は、ゆうちゃんをお預けになった家族を、詩編121編の言葉のように「まどろむこともなく、眠ることもなく」「見守って」くださいました。
旧約聖書のこの詩編は、古来多くの人の信仰の糧でした。特に、この詩の一番最後の句は、慰め深いものです。
「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そして、とこしえに」
出で立つ、とは何かを後にして出発することです。ゆうちゃんは、神様のところを出発して、Tさん家族の所にやってきました。そうして、その家族の家から出で立って、教会にやってきました。
お母さん、長男Tくんを巻き込んで、みんなで神様の恵みのしるしである、洗礼を受けました。お父さんの信仰告白も引き出しました。そうして、突如、神の招きで、この地上を出で立って、神のみもとに帰ってゆきました。そのすべてが「主の見守り」のうちにある、というのが詩編の信仰です。
最後の句は「今も、そしてとこしえに」とあります。
「今」は流れる時間です。歴史の時間です。日常の時間です。地上の時間です。地上の時間を生きるものを、詩編の作者は「足がよろめく」「まどろむ」「熱射病のように太陽が撃つ」「魔物につかれたように月が撃つ」とその労苦を語っています。人生に苦労や悲しみは付き物です。しかし、それを見守ってくださる方がいます故に、生きるのが「今」だと、申します。
「とこしえ」は流れない時間です。命の時間です。愛の時間です。希望の時間です。神様の時間です。ここでは時間は流れないから歳をとることはありません。
私たちは、流れる時間をこれからも生き続けます。ゆうちゃんは、流れない時間を生き始めています。今までとは違った「天上と地上」の交わりを与えられています。この交わりを「主が見守って下さる」のです。
新約聖書ではパウロが、このような人生の経過を「万事が益となるように共に働く」と表現しました。
地上の時間に生きるものは、いつか、親しいものとの別れを経験します。大変つらいことです。しかし、あたらしい交わりを「主の見守り」のもと送ってゆく安らぎを与えられています。
私は今、明治学院教会の牧師をしています。川和教会と明治学院教会が共に分かち合えるものを与えられていることが、両方の教会にかかわりあるものの役目であろうと信じて、今日は「ゆうちゃん」のお話をさせて戴きました。
祈ります。
神様、私たちは親しいものとの死別は特別に悲しい出来事です。それを通して働く神の恵みを深く思うことができますように。地上のものと、天上のものと、魂を通わせつつ歩むことができますように守ってください。主イエスにあって祈ります。
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