宣教学 ー 人は生きてきたように災害に遭う(2006 宣教学 50)

2006.6.13、西宮公同教会、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(50)

(単立明治学院教会牧師 2005.9〜、健作さん72歳)

 1995年1月17日、午前5時46分、その時どこにいたのか。もう10年も経つというのに、その時の突き上げる衝撃は未だにからだが記憶している。ちょっと大きな揺れがあると、からだの底からあの感覚が滲みでてくる。

 阪神淡路大地震の時、わたしは、神戸市中央区花隈町9–16の日本基督教団 神戸教会の牧師館の階下の奥の部屋で、連れ合いと寝ていた。30秒くらいあっただろうか。ドッドッドッカーンという最初の一撃に、築後30年の木造家屋は、ミッシーと音を立てたが崩れはしなかった。

 後で考えると、花隈は神戸でも地盤の固いところだった。それにしっかりした建物だった。最初の激震がおさまって、テレビ、戸棚、ありとあらゆる物が散乱し、停電で真っ暗な部屋を、何とか二人で手探りで抜けて、ダウンジャケットを羽織って玄関から外に出た。

 倒れた大きなゴミ焼却炉を避けて、やっと幼稚園園庭に一時避難をした。暗黒の中、新築の教会別館の二階だけ奇妙に非常灯がついていた。懐中電灯を持って飛び出してきた青木直人伝道師と三人、「大丈夫か」と言葉を交わし、まず身支度と情報収集だと、教会堂階下の講堂に集まることを約して、行動を開始した。

 僕は、カセットレコーダーを探し出し、ラジオを聞く。放送は京都や大阪で地震があったことを告げた。神戸の情報がない。ここが震源地に近いと直感した。情報が届いていないのだと判断し、情報収集を二人に頼んで、近所の安否確認が第一だと、外に飛び出した。

 教会のまわり5軒ほど回って、皆無事なことが分かった。一軒の姿が確認できない。ドアが開いたので、お隣りの若いYさんの主人と中に入った。呆然と崩れた家具の間にうずくまるOさんを外に連れ出した。

「もう大丈夫ですよ。余震は本震より大きいことはない」

 と、思わず親から昔聞いた関東大震災の時のセリフが出てきた。

 飛んで帰って、教会堂の中の点検。会堂は倒壊をまぬがれたものの、物の散乱、塔屋や外壁の部分の亀裂、破壊は相当ひどい状態だった。

 そのうち「栄光が倒れている」と誰か外で叫んでいる。カメラを手に走った。レンガ造りの兵庫県のシンボルである会堂、牧師館が、ものの見事に北側に倒壊している。塔屋の部分は幹線道路を完全にふさぐように散乱。リュックを背負った北村牧師夫妻、伝道師が、倒壊現場で、神学生が倒壊建物からやっと這い出てきたところを見守っていた。怪我はなかったとのこと。記録の写真を撮りまくり、見舞いを言って帰った。

 自分の教会に戻り、妻の用意したあり合わせのもので、集まってきた何人かで食事をとった。以後、ここが共同の食事の場となり続けた。そこは、実にたくさんの人が、救援、見舞いに出入りする場になった。とりあえず、「神戸教会、いずみ幼稚園、地震災害対策本部」と紙に書いて、看板を掲げた。すでに健気にも出勤してきた幼稚園教師、われわれ居住者の牧師家族、伝道師を対策委員として、次の行動を相談した。

 この時点で、西の空にも東の空にも真っ黒な黒煙が立ち上り、教会の前の山手幹線道路は消防車、救急車など緊急自動車の出動がひっきりなしに続いていた。

 教会員、幼稚園園児家族の安否確認をすることで行動を開始した。情報収集、関係機関(兵庫教区)との連絡を取る。ここ現地拠点の生活確保(散乱の後片づけ、水、トイレ、燃料、食料、医薬品、毛布などの寝具の確保など)、当方への救援活動者の仕事の指示、当方からの救援支援の要請に応える対策など、分担して取り組むことにするという、大まかな骨組みを相談。その頃、もう老婦人と言ってよいSさんが、軽自動車を運転してきて、

「芦屋の娘のところで、孫が蔵の部屋で独り寝ていて、蔵の倒壊で亡くなった。葬儀社の連絡も取れないので、なんとかしてほしい」

 と涙を流して訴えられた。母屋は倒壊しなかったが、蔵は全壊だったという。葬儀社への連絡は取れなかったので、芦屋市の行政の緊急対策部に連絡を取るのが一番早道ではないか、とアドバイス。とにかく座ってもらい、祈りを捧げ、落ち着いてもらい、現地へ送り出した、このお孫さんは教会員ではないが、キリスト教大学受験の推薦状を書いたばかりだった。

 遠隔地への電話は過密で通じなかったが、市内はかかった。幸い回線は2本あるので、電話で教会員の安否確認をしていった。後は、近所は歩きで、区内は自転車を用いたが、すぐにパンクしてしまった。自転車がほしい。教団では、東は大阪の摂津富田教会、西は播州の姫路の教会に救援センターを決めたことが午後には伝わってきたので、姫路と連絡を取り、自転車がほしいと依頼したら、多分、2、3日してからだったが、トラックいっぱいの中古自転車を積んで救援隊がきた。うちにも3台ほど置いてもらった。これは役に立った。

 さっそく教会員の米屋の Y さんを訪ねた。普段、礼拝を守る熱心な信徒というわけではなかったが、信仰を生活の地でゆくような個性ある、闊達な商売をしている方だ。その朝、居住地から店に出たら、瓦が落ちたぐらいで、店は健全だったという。さいわいその日のうちに電気が来たので、精米機の動くことが確認できたとのこと。近所の人に電気釜をいくつか提供してもらい、町内の井戸から水を確保できたので、在庫の米を精米してご飯を炊いて、町内の人を動員して握り飯をたくさん作って、近所の被災者に提供したという。その素早さには驚いた。

「センセ、パンじゃ力が出んからね。それにしても、ユダヤ教のシナゴグは早かったよー。朝一番に、地下室にあった、儀式用の〝種なしパン〟をどっさと出して配ったよ」。

 その日のテレビ(4ch)に、素早い近所の救援活動として、この米屋さんの炊き出しが放映された。神戸には教会がたくさんある。その人の知人である牧師が、所在なげにその握り飯の行列にその朝並んでいたという。米屋のおばさんは、その姿が何とも悲しかった、と話してくれた。家は全壊、風邪をひいていて、米屋の近くにとりあえず避難していたのだと思われる。だが、身を挺して人を励まし、寝ていても祈る、という気迫が期待されるのが牧師というものだろうから、見られない姿が悲しかったのだと思う。聞いた僕も悲しい思いになった。2 、3日して、彼の避難先を聞き出し、見舞いの訪問をした。風邪で休んでおられたが、いつもと変わらない端正さだった。

「人は生きてきたように災害に遭う」、そんな言葉が脳裏を走った。

 地震の翌日、18日夜は祈祷会をいつものように守った。韓国に単身赴任の青年 K 君がひょっこり現れた。実家に戻る途中だという。連絡はついて全員無事、家屋の破損も被害軽微だといっていた。飛行機で名古屋空港まで来て、急いでレンタカーを借り、東名経由、六甲山の北側を通って、有馬道から神戸に入ったという。在日の彼の機敏さには驚いた。牧師家族、伝道師、4人で祈りを持ったことが、後々まで強く印象に残っている。3日目で安否確認は完了した。会員の死者はなく、家族とその知人には幾人かが確認された。

 翌日、老人を見舞うことにした。車のトランクに自転車を積み込み、行けるところは車で、後は自転車でと、確保できた水をポリタンクに幾つも詰めて出かけた。百歳に近い老婦人宅を訪ねて「何かできることは?」と、僕より年齢の上の子息夫妻に声をかけたら「母を一時連れて行ってください」と返事が返ってきた。もちろん冗談だと分かってはいた。明治のしっかりもののクリスチャンを日頃からもてあましている夫妻の気持ちがよく伝わってきた。彼ら夫妻はキリスト教に敬意は払ってくれているが、信仰の継承はない。筋金入りのクリスチャンと、それを「尊敬」し取り巻く「教会」人には、日頃から多少辟易していることは私が一番よく知っていた。とにかく、老人の介護は半壊でインフラの破壊された被災地では困難だ。今は行政に頼むのが一番よいのではないかと申し上げた。その地域で最高齢であることは日頃から分かっていたので、さすがに行政も動いて、パトカーで大阪空港まで運んでもらい、神奈川のもう一人の子息の家庭に避難できたと聞き、ほっとした。

「人は生きてきたように災害に遭う」。その後、疎開先に連絡を取り、ずーっとお元気なので安心した。

 1月22日の週報記載記事を基に出来事を思い起こすと、

 20日(金)は片付け(E兄、F神学生、A神学生、C兄父子、大阪教区キャラバン隊応援による)、神戸市の遺体安置所の要請を受ける。階下講堂を提供することにした。灘地区の焼死遺体が3体運び込まれた。同時に「水・軍手・毛布など」の救援物資が「神戸市」よりどっさりと搬入。

 教会員関係者の広島在住のY夫妻から、独り住まいの叔母の行方を捜していたら、中央区の遺体安置所で発見したが、手助けをしてほしいと電話があった。さいわい車はバンだとのこと。棺が入るというので運んでもらい、教会堂の和室に安置した。夜、遺体安置所の寒い講堂には、市の職員が一人、安置遺体に付き添っていた。駆けつけた遺族が行政の扱いに声を荒げて抗議をしている場面もあった。

 夜半、小さな段ボールほどの大きさの棺の横にうずくまっている男性があり、「お子さんですか」と声をかけたら、「いや、お袋です。独り残して東京に出稼ぎに行っていました。火の回りが早く……。場所と着物からお袋だと分かったんです。ほとんど灰でした」と力を落とした声で涙にむせていた。しんしんと寒い夜更けだった。

 21日(土)は、片づけや雑用の合間をぬって説教の準備をした。内側から本棚が倒れてドアが開かなくなっていたのを何とかあけて、牧師室が使えるようにしてあったが、散乱した本などはまだそのまま。

 22日(日)は教区交換講壇で芦屋西教会で「99匹と1 匹」(ルカ 15:4)の題でお話をすることになっていたが、急遽それは変更せざるを得なかった。散乱した本の中にティリッヒの『地の基振るい動く』という説教集が見えた。ティリッヒは地震を経験したのであろうかと考えたが、それは聞いたことがない。そうだとすれば、こんなに揺れたのだから題を借りても悪くはないだろうと思いつき、あのイザヤ書のテキストで準備を始めた。原稿を作るのが習慣なので、ルーズリーフにエンピツで原稿を書いた。例によって夜半もいいところだった。10年余り経ってその原稿を見ても、まあ丁寧に書いてあるので、わりと落ち着いていたのだと思う。が、書き終わった時の心境は、もう一つ「迫るもの」に欠けているとの実感を持ったことを覚えている。それが後々説教集『地の基振るい動く時』(コイノニア社、2005年9月)にまでなってしまって、これも日ごろの説教への修練の不足の表れだと、いまだに思っている。「人は生きてきたように災害に遭う」という思いは拭えない。

 野田正彰氏は災害救援者の思想的責任について語っている。

「まず、自らの反応性の興奮を反省し、全能感と無力感との間を激しく揺れ動かないこと。自分のすることはすべて善である、自分は何も出来ない、この二つの精神状態との間でざわめかないことだ。第二は、いかなる場合も、一方的援助ではなく、被害者と双方向性の対話のある援助を維持しなければならない。その上で、被害者が持ち得ないゆとりを持って、どのような社会が望ましいか、構想する責任がある」(『わが街』野田正彰、文芸春秋、1996年)。

 これは、「人は生きてきた(日常性)ように災害(非日常)に遭う」と言い替えてもよい。ゆとり、双方向性を思想として持つことは、日頃の修練による。「宣教」においても修練はテーマたりうるであろう。

「岩井健作」の宣教学インデックス(2000-2014 宣教学)