1976年2月29日 岩国教会週報
「先週説教より」エペソ1:15-23
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。(エペソ1:22)
聖書の中で「教会」とはどういうものかを示す言い表し方で「キリストのからだ」(エペソ1:23他)は代表的なものの一つであろう。「キリストの体」を理解するために、二つの面を押さえておきたい。
一つは「キリストの」という点。ガラテヤ6章16節に「神のイスラエル」という表現があるが、実際にはイスラエル民族の歩みは"背信と破れ"であり、その現状認識のあまりの悲痛さの中で、歴史を導くヤーウェ(主)への立ち帰りにおける希望のみが、イスラエルを支えているという意味を告げる表現である。エペソ書でも「彼を万物の上にかしらとして」(1:22)という告白によって、神の主権が告白されている。この神の主権への信仰(希望)こそが一つの面である。
次に「からだ」という面について言うならば、"かしら"たるキリストの主権は「教会」に与えられているという点。"教会=イスラエル"。それは歴史の中で目を背けたくなる破れ多き共同体である。人と人との関係を、どれだけ壊れても破れても、それを自分の破れや弱さにまで突きつめて負うという負い方においてのみ、神の主権は顕わにされ活きて働く、というのが引用した句「彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた(エペソ1:22)」の意味ではないだろうか。
私たちは、弱い肢(えだ)は切り捨てていく、また切り捨てられても仕方がないのだという考え方、加えて問題を、自分の在り方や破れにまで突きつめないまま、安易に共同性を壊してしまう甘えを許し抱え込んで生きている。だが、そういった生き方に抗(あらが)う延長線上にこそ「キリストの体」を見出していくことができる。私たちが日常体験する人との関係の様々な行き交いや相剋は、それぞれ「キリストの体」を信じ、また経験するための「招き」を含んでいる。
(1976年2月22日 岩国教会 岩井健作)


