1975年10月12日 岩国教会週報
「先週(世界聖餐日)説教より」第二コリント4:7-11
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
イエスのために絶えず死に渡されている。(第二コリント4:11)
宝は普通なら安全で立派な器に入れる。だがあえて「土の器」(4:7)という時、そこにパウロの挑戦がある。私たちは「信仰において」立派な器であろうとして、知らないうちに自分の力を頼みにしていないだろうか。信仰!それが自分の誇りとなる時、その自分に死なねばならない。絶えず死に渡されるとは、自分の罪において、惨めな姿を晒し続けることである。「イエスのいのち=福音=宝」はこのような意味で「土の器」に入れて担われる。晴れ晴れした永遠の生を先取りしてしまうのではなく、復活の命を信じることで、絶えず死に渡されていく時こそ、キリスト者の生き方が活きている。
民話『聞き耳頭巾』の蔵六は、古びた頭巾の他、何物も親から譲り受けていない。その頭巾は彼の惨めさを示すだけで使い道が分からない。彼はそれを大切に持ち続ける。だが、ふとした折、頭巾のまわし方で、小鳥や木々の言葉を聞き分けることができ、村人たちに仕えるようになる。私たちも、自分の惨めな唯一のもの、自己本位や自分中心の姿を隠さずにさらけ出し、死に渡され続けることが、新しい生への踏み台であることを忘れないでゆきたい。イエスのいのちが、私たちの死ぬべき肉体にあらわれるために(4:11)。
(1975年10月5日 世界聖餐日 岩井健作)


