善きサマリヤ人の話(2010 田中忠雄 ⑤)

2010.3.3、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑤」

(明治学院教会牧師、健作さん76歳)

▶️ 参照:よいサマリヤ人(2009 小磯良平 ㉔)

ルカによる福音書 10章25節−37節

追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。(ルカによる福音書 10:33、新共同訳)

 善きサマリヤ人の話は聖書の中でも最も有名な話である。

 エルサレムからエリコに下っていく街道筋で、ある人が追いはぎ(強盗)に襲われた。半殺しのまま置き去られた。通りかかった祭司はこの人を見ると、道の向こう側を通って行った。レビ人(神殿奉仕・教育担当者)もその人を見ながらやり過ごした。ところが旅をしていたサマリヤ人は、側に来て、その人を見て憐れに思い、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(その晩は一緒に泊まり)翌日になると2デナリオン(2日分の日当に相当)を出して宿屋の主人に介抱を頼み、費用がかさんだら帰りがけに払うといって、自分の旅に出掛けて行ったという。

「3人のうち誰が、追いはぎに襲われた人の隣人となったか」という問いが発せられた。この物語が語られた状況設定に戻るのである。

「隣人とは誰か」をイエスに尋ねたのはそもそも「律法の専門家」であった。サマリヤ人の話を聞いてしまったからには、隣人とは「その人を助けた人」だと答えざるを得なかった。

行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書 10:37、新共同訳)

 がイエスの言葉として記され、一連の物語は終わる。

 このお話は、ルカの特殊資料(マタイ・マルコにはない)であり、恐らくイエスが話したとすれば、実話をもとに構成されたものであっただろう。現代人の読者には多少解説が必要である。当時「サマリヤ人」といえば、この話がどのような意味合いを担っていたかは聞き手のユダヤ人には、痛い程よくわかっていた。

 ユダヤ人は、昔、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされて以来、この地域は異文化に支配され、混血政策にさらされ、イスラエル宗教も変質させられたが故に、南ユダヤ王国のユダヤ人は差別をもってこの人達を見てきたし、また差別的に振る舞ってきた。そのサマリヤ人が「隣人になった」というのであるから、あまり素直に聞けた話ではない。

「隣人を自分のように愛しなさい」(申命記 6:5、レビ記 19:18)という律法は昔から保持しながら、その内実が伴わないエルサレムの「律法学者」への痛烈な批判を込めてイエスが語ったのだろう。また自戒の意味で、初期キリスト教の担い手によって伝承されてきた話である。時代を超えて読み手の人間性を内面から問う話であった。

 読み手が、何処に自分を重ねるかで、その読みの意味は変わるので、いつも話題になるテキストである。

 現代でも南の貧困と北の富裕が際立っていた時代には、北の富裕層を己のこととして自覚的に批判するものたちは「追いはぎ(強盗)」に資本の収奪者自らを同定したものだ。しかし、今は「南北」ではなくて、世界のどの国も絶対的貧困を底辺とする「格差社会」に変わってしまった。その人達を除いて社会は考えられない。至る所で、膨大になった差別され続ける人達がいる。だがその人達の人間性・隣人性に頼らなければ、社会や人間の共同性が成り立たなくなってしまっている。「サマリヤ人」の存在が、社会の前提になっているのだ。

 イエスの時代もそのようであったのではないか。社会の上層部で「律法」を論じている人々に「社会の現実、人間が人間性を取り戻す現実を見よ」、「神は“サマリヤ人”の姿でいまし給う」というメッセージを発信している物語である(キリスト論的読みをする人は、初めからサマリヤ人とキリストを重ねてしまうのだが、そうすると現実の歴史がすっ飛んでしまう)。

 さて、田中画伯は、このお話に何を読み取ったのであろうか。

 この絵の中心は、サマリヤ人ではない。追いはぎに襲われた瀕死の男である。

 が同時にこの男だけでもない。確かに彼が絵の中心を占める。衣をはぎ取られた裸が、体温を感じさせないほどに異様に青白く強調されている。

 サマリヤ人は唯その現実に寄り添う。ここでは「寄り添う」ことが「倫理・行為」の領域を超えている。「寄り添う」という関係として意味を持っている。近代人(近代の教会)は「サマリヤ人のお話」を「個人の倫理」の問題として読んできた。確かに、個々の現場の局面はそのように働いている。しかし、社会の構造の問題がここにはある。

 田中さんの絵はそこまでの広がりを背景に持っているのではないか。

 荒涼とした岩山、緑をつけていない立ち木などの背景が一層、強盗が日常茶飯事の街道を浮き上がらせている。そうしてこの男と共にがっちりとした体格の頼もしいサマリヤ人が舞台を占めている。ユダヤ人の祭司やレビ人などは画面から消し飛んでいるところに、この絵の大胆さがある。そんな人々は、激しい命のレベルでは問題にならない。強盗どもと一緒に一纏めにして、命を奪う人々なのだ。

 この絵を見ていると、追いはぎに襲われた人に、まだ気力が残っているように見える、サマリヤ人の善意・人間性・行動に応答する微かな目の力が残っているように描かれている。

「半殺しに」という言葉が救いである。殺されてしまっていればこの物語は成り立たないのである。「祭司は、その人を見ると道の向こう側を通っていった」とあるが、祭司は死体には触ってはならないという規定があって、それを守って「見た」が、死体だと思って通り過ぎたという説もある。現実に死体のようだったのかもしれない。サマリヤ人に出会って、気力が湧いてきたかも知れない。いずれにせよ「関係・共同性・関わりと応答」といった人間と人間社会の最も深い部分に触れた作品だと思う。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

◀️ ④ 基地のキリスト

▶️ ⑥ ユダの汚辱

▶️ 参照:よいサマリヤ人(2009 小磯良平 ㉔)

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