無名であること(2010 礼拝説教・ベタニアの女性)

2010.3.7、明治学院教会(183:重複)受難節 ③
通番(183)が重複した模様
◀️「この人の思い出」(2009年3月1日)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

マルコによる福音書 14:1-9

1.「いともとうとき、イエスの恵み」(讃美歌21-402番)は、原詩では”I love to tell the story.”である。「私はあの物語を語ることを好む」。

 あの物語(The story)とはイエスの物語である。

 受難物語(マルコ14-15章)は、全体が大きなイエスの物語であるが、「この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」(マルコ 14:9)と語り継がれてきた「ベタニアでイエスに香油を注いだ女」の物語は、この季節の学びに外せない「あの物語」である。

2.この物語の注目すべき3つの点は昨年の受難節に述べた(参照:「この人の思い出」2009年3月1日説教)。おさらいをしておきたい。

① この物語は、「論理(教え)」ではなくて「物語」である。
 教えは理性に訴えるが、物語は情と想像力に訴える。

② この物語は「頭に油を注ぐ(旧約のメシアの儀式)」ことが、イエスへの信仰告白であることを暗示している。

③ この女の名が記されていない。無名であること(ルカ、ヨハネは特定する)。

 大事な信仰告白が、人生の苦難を味わって来たであろう無名の一人の女性によって(無言のうちに)告白されている。

 マルコは、男性・有名人ペトロ(8:29)の物語と一人の無名の女性との対比を背後に潜ませている。

3.今日は、香油を注ぐ女の行為が二重の意味を持って表現されていることに目を止めたい。

 一つは「頭に油を注ぐ」(3節)。もう一つは「私の体に香油を注ぎ葬りの準備を」(8節)。

 後者は、マルコの編集句である。

 この女の信仰告白を「受難のイエス」に結びつけて、マルコは再理解し、強調している。

4.高価な「ナルドの香油」の「塗油」行為を、一見もっともらしい「貧しい者に施す」という自分の主体の痛みを伴わない客観的・経済的価値観で裁いた同席の人たち(マタイでは弟子たち)を、イエスは批判した。

 イエスの差し迫った受難の状況と、その意味を理解しなかった人たちである。

 イエスの受難は、それぞれの主体的な痛みを伴うことで、初めて関わりのある出来事になる。

 女は急迫する状況、「祭司長や律法学者がイエスを……殺そうと考えていた」(14:1)という「受難」を察知していた。

「香油を注ぐ(塗油)」ことは、この切迫した状況でのイエスへの思慕がなくては成り立たない。

 イエスへの「情熱(パッション)」という人の姿と「受苦(パッション)」に痛みを抱く彼女の人生の事柄の重みとが重なり合った行動であった。

5.「受苦(パッション)」と「情熱(パッション)」が重なりあった証しの物語を、私たちも身近に見聞きしてはいないだろうか。

 長女のNさんは、父親の急逝(せい)の後、母弟妹の生活を支えて結婚せず、音楽教師として働き、また教会オルガニスト、教会学校教師として献身的に受苦の生活をした。

 後に牧師と結婚、伝道・牧会に夫婦を挙げて、多くの教え子や信仰の仲間によき感化を与え、天に召された。

 私は偶然にもその方の葬儀を行いつつ、この人は二重の意味での「パッション(情熱・受苦)」の人だとしきりに思った。

 無名で生きた人である。



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