十字架を負うことへの招き(2010 礼拝説教・マルコ・受難節)

2010.2.28、明治学院教会(183)受難節 ②
◀️ 自分の十字架を負う(2006 主任牧師就任・最初の説教)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

マルコによる福音書 8:31-38
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。“(マルコ 8:34、新共同訳)

1.マルコ8章も受難節に読まれる聖書箇所です。

 ここは弟子ペトロの無理解が叱られる場面(33節)。

「あなたはメシア(救世主)」というペトロのメシア像は、当時のローマによる被支配民族ユダヤ人が一般に持っていた民族の政治的回復の実現者への期待像でした。

 イエスは、そのようなレベルで話すな、と戒めます。

 マルコはそれに合わせて「イエスの受難と復活予告」(初期教会の信仰箇条)を記します(全体で3回)。長老、祭司長、律法学者は、エルサレム議会を構成する三つの身分、当時の最高権力です。

 権力によって「廃棄され殺され、復活する」という「人の子」理解とペトロの「メシア」理解の違いを際立たせます。

 ペトロは自分のメシア像からイエスを叱り(「いさめる」は意訳)、イエスはペトロを叱ります(同じ語)。

「救い」はこの世の力の延長線上にあるのではなく、一度その力が「破棄され、殺され」、神の力(人の力によらない)による「復活」にのみあるのだ、という全く異なる理解の仕方が真っ向からぶつかります。

 この力のぶつかり合いの勝負は「サタン(自己実現の権化)よ引き下がれ」の一喝で終止符が打たれ、新たな展開が始まります。

 この一喝を内なる声として聞き取ることが大事です。

2.以上の事柄をもう少し言葉化したのが、マルコ8章34節以下です。

「群衆」が「弟子」と同格で出てくる(マタイ、ルカにはない)ところが、マルコの特徴です。

「弟子だからといって威張るな」ということでしょうか。

”わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”(マルコ 8:34、新共同訳)

「自分」を顧みることの難しさが浮き彫りにされます。イエスに従うには「自分の死に場所」を逃げてはならないのです。

 第二次世界大戦下、ドイツでヒットラーに抵抗して死刑になった牧師・D .ボンヘッファーはこのテキストの意味をこう言っている。

”イエスが人を招くとき、彼はその人に来て死ぬことを命ずる。”

 自分が死ぬことなしにイエスに従うことは出来ない。

 自分の死に場所というと大袈裟ですが、自分がどうしてもあの人は許せないというとき、とても強い自己、自分本位、自己中心、死ねない自分というものを感じます。自己正当化する自分と言って良いかもしれません。こだわる自分です。

 その時、いつの間にか、あの長老、祭司長、律法学者のようになっています。

 またペトロのメシア観になります。

”私が何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものである。”(ボンヘッファー『抵抗と信従』新教出版社 1964)

 主に依り頼む時、十字架を負うことは招きとなります。

3.「自分を捨て」ということでは、私は難波紘一さん・幸矢さん夫妻のことを思い出します。

 幸矢さんは「私はあなたと結婚してよかった」と二度言っています。

 その質が決定的に違うのです。

「十字架への招き」が媒介しています。



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