2010.2.21、明治学院教会(182)受難節 ①
▶️ 勘定済み(2015)
(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)
マルコによる福音書 13:32-42
“あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。“(マルコ 13:41、新共同訳)
1.今年の教会暦は2月17日(水)が「灰の水曜日」である。
”灰”は古来から悔い改めのしるし。
11世紀ごろから信者が”灰”を受け、復活祭の準備期間の四旬節/受難節(レント)に入り、イエスの苦難を偲び、信仰の修練の時を過ごした。
そして、復活節・復活日(イースター)を迎える。
2.この期間に、イエスの受難物語を改めて読んではいかがであろうか。
マルコ14章・15章(福音書の並行箇所では異同がわかる)。
マルコの「受難物語」は原始教会の「生活の座」でまとめられた。
個々の物語伝承の完成度は高く、それぞれ珠玉の物語である。
「ベタニアでの塗油」「過越の食事」「ペトロの否認」「ゲッセマネの祈り」、そして最後は「イエスの十字架刑」と続く。
どの物語を読んでも現代の文脈でのメッセージ性は高い。繰り返し読み、研究者などの読み取りを参考にしつつも、自分の読みを深めていくことが、人格形成・信仰の成熟に大切であろう。
3.今朝は、受難物語の中でも名高い「ゲッセマネの祈り」を取り上げた。
私たちは「祈れない自分」を絶えず自覚している。
祈れなくてもよい、このように祈れ、と「主の祈り」を示され、祈りへの通路は「模倣」「習慣」「生活」であることも教えられている。
それでいて、肝心な時に、祈りのボルテージ(電圧、障壁を破る力)がない。
祈りは「人格関係」であるが、人格関係というものは、初めから「回路」があるわけではない。
口説いたり、誘ったり、問いかけたり、賭けや冒険を伴った関係である。
神との関係は、元来が隔絶そのものだから、雷の電圧くらいに高くないと、空気の障壁は破れない。
イエスの祈りの「アッバ、父よ」はその障壁に真向かう。
そして「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈る。
カルヴァンは「神の尊厳に打たれ、地に着く煩悩と執着を捨てて、神の前に進みよるのでなければ」と祈りの姿を語る。
それはゲッセマネのイエスを念頭に置いているのであろう。
「神の尊厳」とは「ひどく恐れてもだえ始め」(14:33)るイエスの姿に逆説的に示されている。
ここに心が開かれなければ、この物語の意味は悟れないのではないか。
実は、障壁が向こうから破られていることへの、閃(ひらめ)きである。
パウロはこのことをうまく表現した。
”わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。”(ローマ 8:26、新共同訳)
祈りは「神の働き」に包まれた「人のわざ」である。ここに祈りがある。
4.マルコ 14:41に、イエスが三度目に戻ってきて、弟子たちに声をかける場面がある。
”あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。”(マルコ 14:41、新共同訳)
目を覚ませない祈りの姿は我々の現実に重なる。
それに対して、イエスは一言「もうこれでいい(”アペケイ”)」という。
これは元来、商業用語で「領収済み、勘定は済んでいる」の意味である。
「赦し」と言おうか、「無限の受容」と言おうか。
「恵み」というか。
茫洋として「ありがとうございます」とまず祈りたい。
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