画家・小磯良平を通してみたキリスト教(2003 宣教学 27)

2003.6.29、西宮公同教会、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(27)

1.「宣教学」の具体的展開を戦争との関わりで何回か思考してきた。

 そこには日本基督教団が何故戦争協力をしてしまったか、の問いに関連して、日本の知識人の戦争協力を振り返る文脈があった。その中には、芸術の問題も含まれるであろう。その流れの中で、身近なところでキリスト者の文学者や音楽家、画家が戦争に対してどう向き合い、その中をどのように生きたかについて、思いをめぐらすことは今日の宣教を考える、思考のよすがとなると思う。

 神戸教会会員・小磯良平(1903-1988)は太平洋戦争時、洋画家としては、日本洋画壇のトップレベルにあった。軍部が戦争協力への動員をこの画家らにかけたのは至極当然なことであった。

 元来無口な小磯は生前も戦争時代のことはほとんど語らなかったという(息女・嘉納邦子さん談)。しかし、そのスタンスを顧みるに、小磯は戦争への積極的協力者ではなかった。もちろん「従軍画家」という当時の国家の枠組みの中で生きざるを得なかったし、被害者としては米軍の空襲で家屋を焼失している。その様な中で、小磯良平はこの時代、どのような作品を生み出してきたのか。そのことについて考察を巡らしたい。

2.今回の考察の手掛かりとして、一つのビデオ作品を用いたい。『美の巨人たち #146 小磯良平「斉唱」』2003(平成15)年2月15日放映、テレビ東京(日経映像作成、20分)。

3.小磯良平は教会生活では、母・英子が中心的活動者であったのに対して、周辺的存在であった。しかし、その関わりは、決して疎遠ではなく、受動的、文化的、人間関係的かつ持続的であった。

 あらわに信仰を表示するというよりも、芸術活動の底に滲んでいると言うことが出来よう。西洋古典主義に忠実であった点、女性像を描き続けた点等、その生活のスタイルの底に、明治初期アメリカンボ-ドの女性宣教師たちがもたらしたピューリタニズムの信仰からの影響があったと思われる。それらの点についても思索を深めていきたい。

4.小磯良平とキリスト教といえば、一番密度の濃い関わりは、日本聖書協会の要請で描いた32葉の「聖書の挿絵」であろう。これについては、また継続で考察をしたい。

参考資料1、『キリスト教人名辞典』(教団出版局1986)に記された小磯良平。

「小磯良平 1903.7.25 ~ 洋画家。神戸市に岸上文吉の第4子として生まれ、25年 父の従兄弟・小磯吉人の養子となる。父母、養父母共にキリスト者で神戸教会員。幼少のころから教会に通い、33年 神戸教会で牧師鈴木浩二より受洗。1925年 帝国美術員展覧会に『兄妹』初入選、翌年『T嬢の像』特選。26年東京美術学校(現・東京美術学校)卒業。翌年から29年までヨ-ロッパに滞在し、写実の技法を学んだ。帰国した30年から帝展に連続入選し注目される。35年 帝展改組に反対して第二部会結成に参加するが、同部会が復帰を決定したことに反対して、36年 猪熊弦一郎(1902- ) らと<新制作派協会>を設立し、官展を離れる。写実描写に優れ、洋画壇に大きな足跡を残す。神戸銀行本店(53) 赤坂迎賓館(74) などに壁画も制作。71年には聖画32葉を描き聖書に挿入、「聖画入り聖書」として親しまれている。39年朝日文化賞、42年『娘子関を征く』により芸術院賞。東京芸術大学講師、教授、名誉教授を歴任。著書に『人物画の話』(1951) 『デッサンの技法』(共著1955) はじめ、『小磯良平画集』『小磯良平作品集』など多数(編集部)。

参考資料2、岩井健作「小磯良平さんの思い出」(『神戸と聖書』神戸新聞出版センタ-2001) 。

 その朝のNHKニュースは「美しい女性像を描いて多くの人たちに親しまれた洋画家小磯良平さんの葬儀が、神戸市中央区花隈町の日本基督教団神戸教会で本日正午より行われます。」と伝えていた。

 およそ二千人の会葬者に送られ、報道陣のフラッシュをくぐって、柩を載せた車は、小磯さんが数々の名作を生み出した御影のアトリエを山手に望みながら、やがて甲南斎場についた。私は火葬前の祈りを捧げ終わった途端、内から込み上げ、とめどなく溢れる涙を抑えることができなかった。「もはやあの人はいない」。古典主義アカデミズムの正統を歩み通して、清澄なデッサンで写実に徹した日本の近代の一つの美の終わりを感じていた。

 私が初めて小磯さんにお会いしたのは、1978年、私が神戸教会の牧師に赴任した年である。子供の頃から絵は好きだったので、新制作展は欠かさずにいった。小磯さんの部屋では、いわば永遠の現在ともいうべき美の世界の現実に圧倒されていた。雲の上の遠い存在だった。神戸に来るまで、小磯さんが神戸教会の会員だったこと、クリスチャンだったことすら知らなかった。訪問はあらかじめ伝えておいたので、温かく迎えて下さった。応接間で「どうぞおかけ下さい」との言葉が終わった途端、画家のまなざしは一瞬、私の連れ合いの姿の全体を上から下まで捉えていた。「女性像の画家」とはよくいったものだ。その鋭い画家の眼光が忘れられない。「よくいらっしゃいました」。普通のまなざしに戻って、くつろいで話した。

 人は初対面では共通の知人の話などをするものだ。田中忠雄さんのことが話題だった。行動美術に属していた画家田中忠雄さんは、小磯さんとは、神戸二中の同級生だ。田中さんのご父君は、兵庫教会(日本基督教団)の牧師だった。田中さんは私の少年の頃、東京杉並の永福町にアトリエがあり、牧師だった私の父岩井文男の開拓伝道を支援して下さっていた。会計役員だった。子息文雄さん(国際キリスト教大学名誉教授)とは日曜学校の遊び友達だった。小磯さんからは中学時代、田中さんと二人で、スケッチに行ったことなどの思い出話をお聞きした。

 1971年、小磯さんは「旧約と新約」に32点の挿絵を描いた。日本聖書協会からは『口語聖書聖画集』となって出版されている。この業績については、一般の美術研究者はあまり触れていない。1997年「小磯良平再考-『口語聖書聖画集』をめぐって」という論考のなかで山野英嗣氏(京都国立近代美術館主任研究員)はこの聖画について、私の「葬儀説教」を引用しつつ「この挿絵制作は『宗教性と精神性』に満ちた『小磯像』のはじめての具体的現れ」と評価している。

 田中さんは、小磯さんがこの仕事について「平生はあまり聖書を読まない僕だが、こんどはよく読んで勉強になったよ」と語っていたことを伝えている(1997年「小磯良平展」カタログ、読売新聞社)。

 小磯さんが、どのようにしてあの32点の場面を選んだのか一度お聞きしようと思っていて遂に聞きそびれてしまった。「小磯の聖書観」として、いつか取り組んでみたいテ-マである。初対面の時は、とてもそんな話題まで行かなかった。

 小磯さんは神戸教会の「会報」によく挿絵を書いて下さった。教会にあまり原画が残っていないのは、会報委員の役得だったのだろう。いつだったか、イ-スタ-号に私が「イエスの復活」を描いてほしいと注文をつけた。しかもかなり短い期限だった。「画家はテ-マを決められますとね-」と、ちょっと渋い返事だった。しまったと思って「いや、何でも結構です」と言葉を重ねた。二、三日して、「出来ましたからとりにきて下さい」との電話。すぐに行ってみると、鉛筆のデッサンに淡い着彩をした明るい絵だった。聖画集の復活の場面よりはるかにしまって落ち着いたものだった。今でも教会の母子室に掲額されている。そこには挿絵の画家の本領があった。

 小磯さんの描いた新聞小説挿絵の最初は1932年下村千秋著「暴風帯」に始まり、1941年石川達三「風樹」、さらに「人間の壁」、川端康成「古都」、三浦綾子「積み木の箱」など多数、挙げればきりがない。挿絵は、絵そのものにメッセ-ジをもたせない。イメ-ジを与える。絵にメッセ-ジを宿すことを試みたのはルオ-や田中忠雄であろう。小磯さんは写実の画家であって、メッセージの画家ではない。例えば、聖書はそのものがメッセ-ジの書物であり、その解釈が多様であるから、鮮明なメッセージではなくそれとなくその文脈のイメージを醸し出すのが聖書の挿絵の役割であろう。聖書の挿絵が小磯さんでなければならない訳はその辺りにある。そんな意味あいを秘めて、改めて「口語聖書挿絵」を眺めてみると、豊かなイメージがそこにはある。

 ルカ15章の「善きサマリヤ人」の挿絵を眺めていると「娘子関を征く」を思い起こす。小磯さんは第二次大戦下「陸軍省の戦線派遣画家」として「戦争協力」を強いられている。しかし、その関わりで描いた作品は、他の画家に比べると「停戦協定」など、穏やかなものが多い。1940年のこの作品も、軍馬と兵士の休息場面であるが、馬を後ろから描くことによって、時の静止がいっそう全体を包んでいる。

「善きサマリヤ人」ではロバが描かれているが、やはり後ろから描かれていて、そのイメ-ジはサマリヤ人の善意を未来へと繋いでいるように見える。徹底した「神の善意」こそが聖書のメッセ-ジであるが、戦争はそれを根本から否定をする。ファシズム下の日本で、画家も含めて知識人の戦争協力は、ごく一部の積極的協力を除いて、その大部分は心からではなかった。それだけに微妙な程度問題があり、また芸術の本質に関わる問題があった。小磯さんはその苦しい所をくぐり抜けていたと思う。

 小磯さんが「母子像」を絵のテ-マにし始めたのは1943(昭和18)年、戦争の最中である。子を産む女性が戦争の国策として強調されていたから、このテ-マは、画家にとって戦争中を生き延びる限られたテ-マの一つであった。小磯さんが積極的に戦争協力を考えたとは到底思えない。古典主義を固く守った小磯さんにしてみれば、ラファエロ「システィナの聖母」から、アングル「ルイ13世の誓い」の母子像の系譜を考える(廣田生馬)のが、穏当であろう。元来が聖書のテ-マである。そうして戦後「母子像」は小磯さんの大切なテ-マとなった。

 このたびの神戸聖書展にちなんで創られる『基督 in 神戸-2001年聖書物語』のビデオの中の小磯さんに関する私のインタビュ-でもお話したのだが、聖書の挿絵のなかの幾つかの場面に小磯さんはさりげなく「母子像」を入れ込んでいる。例えば「海を二つにわける」「エルサレムに迎えられる」「神殿から商人を追い出す」「十字架」など。

 小磯さんの遊びとも言えなくない。「馬」といえば、小磯さんは戦前自分のアトリエに馬を入れ込んでデッサンの習作を描いた、と何処かで読んだ事がある、これもご本人に確かめておけばよかった。馬を入れることが出来る大きなアトリエは中央区山本通りにあった。そこが戦時下空襲で焼けたので、転々とされたが、一時谷上の神戸教会員・中島一郎さん宅に仮偶された。中島さんは農家である。ここで、労働の生の姿にふれたであろう。働く人々は小磯さんの戦後のテ-マの一つとなった。

 アトリエの話に戻ると、戦後小磯さんは御影の山手にアトリエを移した。山本通りの土地を、現在そこに建てられているバプテスト教会に紹介したのは、神戸教会員・平井城さんであった。平井さんはかねがね小磯さんに自分の肖像画を描いてもらいたいと依頼していた。何十年経ったであろうか、ご両人共に八十歳近くなった。ある日小磯さんから、平井さんに電話があって、「あなたの肖像画を描くから二、三日したらアトリエにきて下さい」とのことだったという。作品は必ずしも平井さんご自身の御自分への想像とは少し異なっていたかもしれない。「画家の観たあなたはこうです」といわれたという。時が経って平井さんが亡くなられた。その時病院に駆け付け最初に出会った平井さんの最後の顔は、肖像画そのものだった。不思議な思いがした。美しい顔だった。

 小磯さんは1903年 岸上文吉・こまつ夫妻の八人兄弟の次男。岸上家は三田の九鬼藩の家臣。東京美術学校在学中、1925年 小磯吉人・英夫妻の養子となった。英は祖母の姪。こまつ・英、共に神戸女学院の出身、岸上・小磯夫妻共に神戸教会会員。1932年11月12日、萩原貞江さんと結婚。1933年7月16日、貞江夫人共々、神戸教会 鈴木浩二牧師より洗礼を受けた。『近代日本と神戸教会』(日本基督教団神戸教会編、創元社1992年刊)に、私は神戸教会には三つの系譜がある《男性の系譜・女性の系譜・弱者の系譜》、そして小磯さんは女性の系譜に属すると書いた。いま、ますますその思いを深くしている。初期神戸教会の信仰は、アメリカンボ-ドの宣教師達によってその基が創られたが、リベラルア-ツの神戸女学院、献身・召命の教育の神戸女子神学校の働きに足跡をのこした女性宣教師の系譜は大きかった。

 その流れの中で、はじめてあの美しい女性像は描かれたのだと思う。

「岩井健作」の宣教学インデックス(2000-2014 宣教学)