1975年9月28日 岩国教会週報
「先週説教より」ガラテヤ 4:21-31
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
アブラハムにふたりの子があったが、…。「…女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。(ガラテヤ4:22-30)
ガラテヤ人への手紙4章21節以下は、パウロが創世記16章の古事を引用しながら、当時のエルサレム中心の律法主義者への論争を展開している箇所である。アブラハムは、信仰に生きた先人であるが「二人の子どもがいた」というところに、今日の焦点がある。彼の妻サラは不妊であって、せっかくの神の嗣業を受け継ぐ子がなかった。そこで一計を案じ、女奴隷ハガルによって子を得る。これはまさに「人の思いによる」子であった。このような人間の自己実現は、一見生産的のようであるが、聖書は「肉によって生まれた」(4:22)子という。他方、不妊にも関わらず神の約束によって与えられた子を「自由の女」(4:30)の子といっている。後者は27節でイザヤ書(イザヤ54:1)の引用で論証されて「喜べ、不妊の女よ。…」(4:27)と祝福されている。この引用は、旧約の預言者イザヤの時代に、アッシリアからの攻撃にさらされる中、何ら生産的なものを生み出し得なかったにも関わらず、その自覚のゆえに神の恵みの対象となるエルサレムの街を示している。「上なるエルサレム」(4:26)とそれは表現される。
犬養光博牧師(福吉伝道所)が「筑豊につぶれて」という一文を書いている。彼はかつて『筑豊に生きて』(1971 教団出版局)という本を書いた。筑豊での牧会と生き方の中で氏の自己実現に属するものが潰れていく中、絶望を知っていく苦しみこそが尊いという経験を証ししている。また、金鎮洪(キムジンホン)著『暁を呼びさます鐘:ソウルのスラムに生きて』(1975 新教出版社)を読んだ。そこには、スラムの人々を愛するゆえに真理への動機が転生して、その度に自己実現が潰れていくことにより、神の恵みに生きる衝撃的な生き方が記されている。
私たちの心のうちには「二人の子ども」がいつもいる。そのうち、自分の思い、自己実現を計る自分が潰れていく時が大切ではないか。自分では何ら生産的なことができなかったという自覚を大切にして歩み続けていきたい。
(1975年9月21日 岩国教会 岩井健作)


