信仰の戦い《エペソ 6:10-24》(1992 週報・本日説教のために)

1992.3.8、神戸教会
復活前第6主日・受難節第1主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、エペソ人への手紙 6:10-24「信仰の戦い」岩井健作

 「生まれてきてすみません」という文学的表現で、自分の存在そのものが宿す罪性を直截に捉えたのは、作家・太宰治でした。

 彼は『人間失格』の中で、”罪”のアントニム(対義語)を探し求め、それがわかれば、罪からの救いを見出すことができると言いました。

 聖書は、その罪(神との関係の喪失、それゆえに人間同士の関係性の破壊)の対極に「神の恵み/十字架によるイエス•キリストのあがないの愛/神の救い」を指し示します。

 エペソ人への手紙も、「罪過と罪によって死んでいた者」(エペソ 2:1)との認識の後に、「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過に死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし ー あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ 2:5)と述べています。

 「あがない」という言葉は用いていませんが、ロマ書3章24節「イエス•キリストによるあがない」と同じ事柄をより包括的な「恵み」(エペソ 2:5)という言葉で示しています。


 1984年(明治27年)の日本組合教会制定の「信仰の告白」でも、第2項で「我等ハ神ニシテ人トナリ罪人ヲ救ハン苦痛ヲ受ケ死シテヨミガヘリ給ヒシ耶蘇基督ヲ信ズ」とあり、教団信仰告白でも「御子は我ら罪の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり」と、キリスト論が強調されています。

 これはキリスト教信仰の中核をなすもので、ここのところの掘り下げた基本理解が欠けると、信仰とヒューマニズムとが混同されます。

 神の自己否定、神の死という逆説を伴わない、単なる愛の理解の上に乗った善意は、裏を返せば、直接的な自分本位に滑り落ちるからです。


 さて、エペソ書6章11節には、「悪魔の策略」とあります。

 ボンヘッファーの『現代信仰問答』には、「悪魔は私たちと神との間を引き裂く」者とあります。

 「引き裂く」とは、「神の死の現実性」「今なお神が歴史の中で苦しみ死に給うこと」の否定です。

 そのことは、自分だけは救われるという贖罪論の矮小化、「神の死」の苦しみに共にあずかるからこそ救われるという逆説性の否定です。

 教義(ドグマ)は「関係の確認」であっても、「関係の創造」ではありません。

 「愛している」よりも「好き」、さらには「死んでもいいわ」という逆説の方が、関係を生み出すことに一層強烈です。

 「神の武具」(エペソ 6:10、6:13)とは、教義的真理ではなく、「神の子が十字架で死に給う」という秘儀・逆説に立つことではないでしょうか。


 ”最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。”(エペソ 6:10-16、口語訳)

(1992年3月8日 本日説教のために 岩井健作)


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