「合同のとらえ直し」の基底(1992 沖縄)

「福音と世界」 1992年3月号 所収

(健作さん 59歳)

日本の罪責としての沖縄

「『在日』『部落』『沖縄』は日本の原罪である」という言葉が胸に刺さって久しい。確か演劇家木下順二氏のものであったと記憶しているが出典を定かにし得なかった。最近、同氏自ら、それは評論家・藤島宇内氏が1958年に語ったものだということを明らかにしているのを読んだ(『婦人之友』1992年2月号)。他のことはさておいて、かつて私が属する日本基督教団兵庫教区において、「沖縄との交流」を足もとからという計画の一つで、同沖縄教区が仲介してY教会より沖縄戦体験者の二人の女性をお招きしたことがある。6月23日を中心にとの企画を、交渉委員だった私が申し述べた時、しばらく返事をいただけなかった。その「沈黙」の意味を、結果的には、当事者のTさんに言わせてしまったその感性の鈍さを思い知らされたとき、あの「原罪」という言葉が再び棘としてうずいた。

 Tさんは沖縄師範女子部在学中に1945年3月沖縄戦において日本軍の戦場動員で県立第一高女生ら219名と共に陸軍病院の看護手伝い要員とされ、九死に一生を得たが、壕から壕への最後の移動において、生死を分かつ行動のとき、すでに負傷していた友人を後に残した罪責のゆえに、戦後キリスト教に入信し、沖縄の戦後史を教師として生きてこられた方であった。

「6月23日前後を『慰霊』と祈りの時として静かに過したい」とポツリと言われた。その気持ちとそれを生み出させた状況への「本土」の者の無理解については、半ば諦観する響きがあった。その状況を認識するとはどういうことか。時期を調整した後Tさんと同行して、われわれのスケジュールに応じて下さったGさんは、後々「贈呈1990年受難週」と自署して、『ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック』を送って下さった。それには、沖縄戦が「国体護持」をかけた時間かせぎの「捨て石」作戦であり、これについての天皇の意思は、速やかな戦争終結を「上奏」した「昭和20年2月14日」の近衛文麿元首相の言説にもかかわらず「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」「一木一草ニ至ルマデ戦力化」「軍官民共生共死ノ一休化」であったと記されている。その年の6月18日、数日後自死した牛島軍司令官は無期限戦闘の命令を下し、陸軍病院は解散した。動員からこの日までの90日間の犠牲者は21名であるのに「解散命令」後わずか5、6日で約200名の少女が死んだという。野戦病院には約1万の患者があったが「日本軍らしく自ら処置せよ」と毒薬や手榴弾が渡されたとある。Tさん自身もこのガイドブックに凄惨な体験を寄稿している。「受難週」にと、これを受けた私は、その問いかけの重さにただたじろがざるを得なかった。そこには、沖縄との相関において日本人とは何か、あるいは「本土」日本人キリスト者とは何かを、自らの内に萌芽のかたちで問わしめるものがあった。琉球処分以来の沖縄と「本土」との関係史に引き入れて思考せざるを得ない、日本人としての自分を覚えさせられた。

日本の近代を揺り動かす沖縄

 大江健三郎氏は、日本人の沖縄への罪責について「いったん自分の日本人としての本質にかかわった実際の罪責を見出すまで、沖縄とそこに住む人々にむかって進んだあと、われわれが自分のなかに認める、暗い底なしの渦巻きは、気のめいる苦しいものだ」(『沖縄ノート』)と述べ、その「ざらざらした掌で逆なでされたような違和感」について、「それは日本人の近代をつらぬいて奇妙に振れたかたちをとりながら、しぶとく生き延びつづけて、とりかえひきかえ新しい欺瞞の衣装をまとっては、歴史の転換点に公然とあらわれるところの、『中華思想』的感覚の問題である。」という。

 氏のいう「中華思想」的感覚とは、世界の中心としての日本、アジアの中心としての日本という感覚。少なくとも「日本が沖縄に属する」という発想に対しては、肉体および精神の奥底を逆なでにされる不愉快を感じる感覚だという。私の言葉に置きかえれば、関係を関係として成り立たしめない思想的完結性だ。そこには「同化」があり「切り捨て」が宿る。「沖縄」が日本人の原罪であるという場合、原罪が「気のめいる苦しいもの」であり、自己の責任で処置できないものであることは当然である。だからキリスト教の文脈で言えば、「神の支配」「贖罪論的救済」等々と表明されている事柄の現実性にゆだねられねばならない。また、それが個々の主体の実存の根拠であることとの相関でこそ担われるべきものである。しかし「神の支配」「贖罪論的救済」を神学的完結性の中に取り込み、沖縄との関わりを倫理の問題と位置づけるならば、その「神学」は、大江のいう「中華思想」的感覚と同質のものへと転落するであろう(かつて日本基督教団が「戦争責任」の告白を表明したとき、これを、その時点における状況に対する信仰表明(告白)と認めず、倫理の問題と意義づけた「五人委員会」の見解は、同時に「日本基督教団信仰告白」を神学的完結性=「中華思想」的感覚へと一層近づけてしまった)。神学が終末論的未完結性へと開かれることなしに歴史の中で存在し得る危険を日本の教会は、日本人の近代と共に生きてはいないか。このような問いかけは、ある意味では神学的な完結性の上に「教会形成」をしようとしている教会には、逆なでの違和感をもたせる。しかし、沖縄が「本土」との関係史において日本の近代を批判しつつ発しているものは、そのような問いであり、「本土」を、そして「本土」の教会を、神学や思想の完結感覚から揺り動かすものである。このことそのものが、今、日本基督教団でとりくまれている「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし(以下、合同のとらえなおし、と略)」がもたらしているものであると私は理解している。

「信仰告白」の在り方を問う「合同のとらえなおし」

 しばらく前、T牧師の同道で、沖縄県立博物館々長(当時)大城立裕氏を訪問した。沖縄学の先駆者・伊波普猷(いはふゆう)の思想の流れを汲む作家である。私はかいつまんで「合同とらえなおし」のことをお話しした。教界人ではない氏がどれだけ細部を理解したかは分からないが、感想と示唆を話された。沖縄と大和とは、文化や言語をはじめ様々な領域で共通する部分と異なる部分とがある。もし全く異文化であるならば、その相互の理解には慎重さが求められ、また「同化」に対しては激しい抵抗があるであろう。しかし困ることは、共通部分があることである。そのためかえって微妙に異なる部分が大和感覚で押し計られてしまうと述べられた。このことは、相手から激しく問われなければ、それをよいことに自己の立場に居座り、微妙に異なる部分を、関係そのものとして問いかえす感性の欠如を当然としてしまうことへの警告でもあった。琉球処分以来の綿々として重い「同化」と「差別」の歴史の加害者性に関わる部分はきちんと押え、それを自分の問題領域で担った上での関係性が求められているように思えてならなかった。

 例えば「合同のとらえなおし」が「日本基督教団信仰告白」の再検討を組み入れざるを得ないのは、1941年における日本基督教団の成立において宗教団体法のねらいである国家への隷属を表明させた当時の「日本基督教団規則(昭和16年文部大臣認可)」の第七条第一項「皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其ノ分ヲ盡シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ」と第五条「教義ノ大要」(後々「教団信仰告白」の基礎となったもの)との並列を、その問題領域で扱わざるを得ないゆえである。この並記のうち、戦後1946年3月の「日本基督教団憲法及教団規則」においては「教義の大要」のみが残り、「多少の変更」として、あの国家体制への表明の部分がするりとぬけ落ちていく体質が問われないままであったことが、ぬきさしならない問題となるのは、完結性をもってしまっている神学の領域からの発議としては成り立たず、沖縄との関係史においてはじめて問われる。沖縄との関係を探ることは、その関係の他方の当事者の「本土」を自明のように成立させている前提が相対化される。「合同のとらえなおし」が何故「信仰告白」の問題につながるかは、沖縄と「本土」との関係そのものを、「教団」という個有な領域で成り立たせるため、「信仰告白」が関係性の象徴であり得るものへと再検討をすることなのである。それは、そもそも、日本的精神風土、天皇絶対性の日本帝国主義下、及びその裏返しとしての柔構造をもつ戦後民主主義状況下での、「信仰告白」主体の脆弱さを内に問うことなしにはあり得ない道遥かな作業となるであろう。「教団」が「信仰告白」的な安住の地から出て、いま一度状況との関わりで「告白」を求められていることなのである。

近代史の陥穽を負った教会からの脱出

「合同のとらえなおし」は、教団の固有な問題領域ということで、教団の「教憲」「教団成立の沿革」「教団信仰告白」「教団名称」「教団創立記念日(歴史)」等々教会制度上の問題に即して検討の作業に入っている。しかしそれが即自的に意味をもつものではない。沖縄と「本土」との関係において、どこまで「本土」を相対化しつつ関係存在たり得るか、その体質を、その個別課題を通して持ち得るか、そのことが重要なことである。その背後には、歴然とした沖縄史と沖縄の現実がある。「沖縄キリスト教団」との合同は、その現実を負い込まざるを得ない。それはまた歴史と現実における「本土」の優位性・加害者性・差別性・同化性に対する批判的自覚を含んだ関わりであるはずであった。そこを背負い込めない体質は、ある意味では、プロテスタント教会の日本宣教初期からの弱さであった。それが1941年合同において最も露わな形で露呈され、その後の戦争協力、戦後復興に、その体質に引き継がれて来たとするならば、このたびの「合同とらえなおし」は、沖縄キリスト教団(現沖縄教区)をパートナーとしてはじめて遂行できる「教団」再生の機会と言えよう。事を急いではならない(教団議長談)のは当然と言えようが、日本近代史の陥穽を負った教会が、それを克服する地平へとその方向を見紛うことがあってはならない。ルカ福音書15:4で、「九十九匹(の羊)は、荒野に放置(危険に晒す)」されたとある。もしこれがテキストの最古層の様相であるなら、今教会は、この九十九匹の不安と流動をこそ共有すべきであろう。荒井献氏はルカ15:4を「ユダヤの宗教共同体の中で疎外されて『いなくなった』一人の『地の民』と同行したイエスの振舞いが適格に『ロゴス化』された」譬話だと意義づけている。そして「共同体に帰属する人々に対する批判行為」が逆説的に示されているという。過去、天皇を絶対とする日本の国家体制による苦難を最も受けた沖縄との関係は、その国家体制を補完する共同性を揺さぶられることなしには持ち得ない。マタイ福音書が示した、18:12で、「荒野」を「山に残す」と改変し、「聖域に保護する」という意味を附して、安定した共同体の視点から迷える一匹を見るという方向は、近代日本の教会の通俗的安定への方向と重なり合って滑らかではある。しかし教会は、その共同性の質において、イエスが示した最古層の物語が示す方向、最も開かれた共同性へと絶えず引き寄せられることを恐れてはならない。教会論とは、そもそもこのような逆説性を含んでいて成り立つものではないか。思想はその逆説性においてこそ他なるものとの関係を規定するものであり、逆説には境界がなく、境界線の内で多様なるものを統合し、あるいは外へと排除するという自己規定性がない。さらに思想が逆説性をもつためには、相互に主体が成り立つような、共存の場に対して開かれており、寛容であり、ゆるやかであることこそが肝要であろう。

沖縄の過酷さへの想像力を

 沖縄が復帰して今年はニ十周年を迎える。新聞の県民意識調査によれば9割強の人たちが「復帰して良かった」と答えているという。これは二次にわたる沖縄振興開発計画が基礎となってはいるが、他面、政治、経済、社会の各面で「本土化」が進み「沖縄らしさ」が失われたという。失われたものの上位には自然、方言、人情があるという。しかし依然として沖縄からなくならないのが米軍基地である。県議会は昨年十件の抗議や意見書を採択している。ソ連邦が解体するなど国際情勢の変化にもかかわらず、防衛施設庁の1992年度沖縄関係予算は前年比7.1%増、1409億円強であり、うち軍用地借料は568億2000万円、対前年比10.5%増である。復帰時約三万人いたといういわゆる反戦地主は札束にたたかれて現在は約三百人と聞く。交付金が経済の底を支える中で、あえて未契約で、土地の強制使用の対象となり県収用委員会の公開審理の場で意見陳述をする人たちの健気さを想う。“本土になった沖縄”のこの変わらない部分こそ、土地を通じてアジアへの加害者性への拒否宣言をしている人たちである。「沖縄タイムス」を読んでいて情報の「本土化」は相当であるが、こと基地に関する限り現地情報は生々しい。県道104号越え実弾砲撃演習阻止県民大会(昨年11月25日、3500名集会)等の連続の抗議にもかかわらず、1月22日には実弾168発が恩納岳一帯に撃ち込まれたと報道されている。もうここ三年も苛酷な闘争が続いている恩納村の米軍都市型訓練施設については、県議会が1988年以来五回にわたり「意見書・抗議決議」を行ない、地元村民総決起大会が行なわれ「移設反対・施設撤去」の要請行動が生活をかけて行なわれて、地域の草の根的闘争が米軍を追い込んでいる。神戸の六甲山の山頂も米軍基地であるが、あのフェンスが水源地をすっぽりおおい山のふもとにまできて危険なゲリラ対戦訓練が行なわれる様子は想像を絶する。「私は炎天下あるいは冷い雨の中、基地に向かって、赤旗を振る姿や軍事施設反対の前面に映し出される老婦人の姿など見るたびに、自分の土地のため、このようにしなければならないかと胸を打たれる」(沖縄タイムス投書)。このような「本土」にはない部分を、復帰二十年の陰として読み取らねばならない。このような個別問題は他にも様々ある。それらと同質の問題を、自分の生活との関わりでどれほど捉えていくか。このことは「合同とらえなおし」の基底部になるであろう。

「むかうかた してな」

 沖縄県浦添市にある国際協力事業団の沖縄国際協力センターで学んでいる東南アジア、南米、アフリカなど発展途上国から来て研修する若者が、「沖縄の人は話しやすい。本土の人は忙しそうで話しにくい」といったという(「朝日」92.1.13)。経済的な効率や組織の規律を最優先しがちな本土社会が、経済成長の過程でそぎ落してきた「ヨコのつながり」を、沖縄は尊重することが残っているという。琉球王朝は内では農業を振興させつつ、外では海を最大限に活かして中国や東南アジアなど諸外国と交流したという。

 奄美・沖縄諸島に伝わる最古の歌謡集『おもろそうし』の船の出航の歌に「むかうかた してな」という表現があるという。『おもろそうし辞典・総索引』の著者・外間守善氏によれば、向う方に調和してという意味で、「行く先々で協調する心と四海同胞を交易の心構えとした」沖縄の生き方をよく表しているという。「海に閉された沖縄ではなく、海に開かれた沖縄」にこそその特徴がある。昔から戦力を保持しなかった沖縄には、「海外派兵」や「侵略」の思想はなかったのであろう。こういう所までが「本土化」されてはならないし、させてもならない。とすれば、「本土」の者が、経済にしろ、軍事にしろ、「派兵」や「侵略」に歯止めをかけてゆかねばならない。そのこととの相関で、「本土化」されない部分との沖縄との交流が成り立つであろう。このような交流もまた「合同とらえなおし」の基底部であろう。

 私は第26回教団総会において「合同とらえなおし」関連議案の提案説明において、「とらえなおし」の方向性として、沖縄の固有性をそれとして認識していく努力を訴えた。その固有性とは、日本国家が、それ故に「本土」が沖縄支配の構造の中で奪い尽くしてきたものであり、あの折引用させていただいたが、金城重明氏が「集団自決の谷間から」の一文で記している如く、皇国日本の臣民であれという運命共同体的一体感に最も強く収斂された時、収奪の頂点にあったという構造をもつものであった。金城氏は「一体化という言葉が語られるとき、その内容については常に厳しく検討されなければならないであろう」と述べている。これとほぼ同質の一体化が日本基督教団で起こったということが、あの69年の「合同」であったと理解することができる。とすれば、沖縄の固有性をそれとして認め受け入れるという思想的、神学的あり方の徹底が「合同のとらえなおし」の方向なのである。

キリスト教理解への希望としての「合同のとらえなおし」

 思想や神学は、主体の発言として、ある状況への関わりにある限りでは活きていたとしても、それが伝達され受け取られていくと固定化されやすい。そういう意味では絶えず受け取った者が、自分の状況で語り直していく必要がある。日本基督教団の教会制度上の諸文書も「教団信仰告白」等を含めて、「合同とらえなおし」における語りなおしという歴史性をもった事柄でありそれ以上ではないことを弁えておいてよいのではないかと思う。定着されたものは、またその歴史性をふまえて解釈にゆだねられるであろう。それはまた、聖書がそのような歴史性において読まれることと関連しているであろう。

 例えば、新約聖書ピリピ2:6~11は、初代教会の定式化された「信仰告白」だといわれる。この信仰告白の特徴は、イエスの死を贖罪論的に、つまり罪のあがないとしては捉えていない信仰告白であり、ユダヤ的な理念ではなく、ヘレニズム的性格をもっているという。イエスが僕の姿をとり死にいたるその極みによって神の栄光が表されるという逆説性を含んだ告白であったという。この「キリスト讃歌」の告白がくりかえし唱えられる時、主体的真理としての逆説性が平板な救済論的教義としてしか受けとられなくなったとすれば、この「讃歌」を引用しながら「死に至るまで」の次に「しかも十字架の死に至るまで」の一句を挿入し、処刑台としての「十字架」の不快さ、つまずきを通し、この世の力に打たれる弱さ、みじめさ、絶望を媒介とした逆説性を回復させたのがパウロであったという理解は説得力がある。青野太潮氏が「十字架の死に至るまで」の一句をパウロの挿入と指摘するところに負った理解であるが、「信仰告白」というものは、附加されるにせよ、別な「告白」で補われるにせよ、歴史的文書として存続するものであることを示している。

「合同とらえなおし」は、教団を一枚岩の教会には向かわしめないであろう。むしろ、多様なものを多様さとして共存せしめ、それぞれの主体的・信仰的生き方が豊かにされるような教団へと向かわしめるものであることを信じて疑わない。それはまた、近代の宗教であるプロテスタンティズムを、外の諸思想に向かって開かれたものへと向かわしめる契機をもつものであると信じる。

付記

 編集部の私への執筆役割は「日本基督教団における『合同とらえなおし』の意味とこれからの方向について」「『福音主義教会連合』からの指摘について」等々であることを指摘いただいた。本稿は内容的にはそこに触れた積りであるが、「合同とらえなおし」の経過とその作業については拙稿「合同のとらえなおしとは何か」(「信徒の友」1991年5月号)と私も執筆に参加した『討議資料日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおしとは?』(『合同』特設委員会編 1990年)をご参考いただければ幸いである。

”戦責告白”の歴史的意義とその現在(2008 神学校)