1975年9月21日 岩国教会週報
「先週説教より」ガラテヤ 3:23-29
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ3:28、口語訳)
あなたがたは皆、キリストにあって一人だからである。(ガラテヤ3:28、佐竹明訳)
「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく」(3:28)との言葉は、教科書的な教えとして語られたのではなく、ガラテヤ教会のユダヤ主義者が大勢という圧力を持っている状況下で、ガラテヤ教会の人々への挑戦として語られている。つまり、キリストに属する人々が異邦人(ギリシア人)への差別を乗り越えていく戦いにおいて、差別の克服を訴える力を上より与えられていることの信仰が告白されている。差別の現実に目をつぶって、観念的に「人間は皆兄弟、一つだ」というようなことではない。「キリストを着たのである」(3:27)と言われているが、これはキリストへの服従を意味する。また、原理的・根本的に「十字架の愛」が差別の障害を克服していくことを、実生活で力あらしめる信仰の姿を言っている。実際、仕事着が仕事へと意識を向けていくように「キリストを着る」ということは「キリストにあって一人」(3:28、佐竹訳)になるということである。口語訳の「一つ」より、佐竹明氏のようにここを「一人」と解した方が文脈が活きる。お互いに、いろいろな力に弱く、一人になって決断し決意することが弱い。自分の力で一人になろうと思っても難しい。キリストにあって(委ねて、捕らえられて)こそ一人となり得る。一人になるとは、自分が変えられていくことである。自分を充実させる生き方から、互いに活かされる生き方へと変えられることである。教会とは、交わりの中で、見せかけの一人ではなく、真実の一人へと育てられる場であると思う。
(1975年9月14日 岩国教会 岩井健作)


